劉邦は、口が悪かった。
── くずのようなやつだ。
と、自分の配下のたれかを、頭ごなしにののしることがあったが、しかし隨何ずいかに対する時の罵倒ばとうは好悪こうおから出ていた。
「いやなやつだ」
つい、口に出してしまう。
隨何は劉邦に近侍きんじする小役人である。いつ隨何を採用したのか劉邦自身も憶えていないが、旗上げして数ヶ月経たったころにはこのしたり・・・顔の小男が身辺に居たような気がする。
隨何 は鶴に儒服じゅふくを着せたような感じの男で、謁者えつしゃ(賓客を接待する係)という、いわば給仕のような仕事を、綿密な気くばりでもってつとめていた。忠実といえばこの男ほどまじめな男はいない。劉邦が彭城ほうじょう(いまの徐州)で大敗して沼沢しょうたくの間を逃げまわっている時も敗軍の中で劉邦を必死で探し出し、そのあとは蠅はえのように劉邦のまわりを飛びまわってこまめに仕えていた。
「隨何 はたいした男だ」
劉邦の幕僚たちは皆ほめた。
「わるい男じゃありませんよ」
と、たれかがかばうと、劉邦はあたり前だ、と大声を出し、
「あれで悪ければどうなる」
と、言った。劉邦は口ぎたなく罵ののしったり、腹を立てたりする時、かえって愛嬌あいきょうが出てしまう。ひょっとするとひとの親分である劉邦の本質とはそれではないかと思われるほどであった。
隨何は儒生じゅせいであった。まだ三十代を過ぎたばかりで、目もとに童臭を残しているが、儒者らしくひげをはやし、どういう場合でも冠かんむりを正しくかぶり、みずから訓練して容貌をたえず温雅にたもっている。この時代、儒教は後世のように天下を覆うに至っていない。
戦国の頃に諸子しょし百家ひゃっかと言われた諸教団の中では、博愛と不戦という特徴的な論理を武器にして説く墨子ぼくし教団と共に儒教教団は最大の勢力をしめていた。しかし、かといって儀礼を尚とうとぶ儒教をもって立国の基礎とする王侯など、戦国期にも劉邦たちの時代にも居なかったといっていい。
「様子ばかりつくりおって」
と、劉邦は言うが、たしかに儒生はやわらかい儒服を着、婦人が髪形を気にするように冠が一分いちぶ
でも曲がっていないかとたえず指で触れ、笑う時もほんのり微笑を洩もらすだけで、決して大口をあけて大声をあげることはない。
仁じんと忠恕ちゅうじょが彼らの倫理の中心になっている。
忠とは、後世、日本的な意味になったそれではない。単に、まごころということである。忠恕とは他者への思いやりということで、この原始教団時代の儒生にあっては儒教の本質を身をもって示さねばならないため、多分に演出や演技を用いる。人の心は一個の器うつわである。儒生としては忠恕という水が器にひたひたと湛たたえられていることを外貌に示すために、いかにも憐あわれみぶかそうな顔つきと様子をしつづけていねばならず、隨何 というこの謁者もまたそういうぐあいであった。
「あんなやつ」
と、劉邦からみれば、見るだけで歯が浮いてしまう。しかし、隨何 にはなにも落度はない。 |
2020/05/20 |
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