秦は、儒者を弾圧した。始皇帝しこうていは有名な焚書坑儒ふんしょこうじゅをやったが、阬あなうめ(坑)にされた儒者は主として首都咸陽かんよう付近に限られており、他地方では生き残った。乱世になると、儒者たちは四方にはしって職を求めた。
就職となると、博愛と不戦を説く墨子ぼくしの徒などなかなか仕官の口がなかったが、その点儒教は長者に仕える道であり、長者に德を増させる道を教えるために、有利であった。儒教は、内にあっては温順な家族原理をもち、父母に対し神であるかのように仕える。王に対してはその敬愛を増すための儀礼をととのえさせその德をいよいよ輝かしく見せかけるために供奉ぐぶを荘厳そうごんにし、出入りに音楽を用いるなどの演出もやったから、王侯ともなれば儀典係に儒生を雇わざるを得なかった。隨何ずいかの職である謁者もまた儀典係の一つなのである。
が、劉邦は儀典がきらいであった。それらがすべて虚飾に見えたし、第一、儀典を進行させる儒生たひの知識人ぶった顔つきが気に入らなかった。
「こんなもの」
と、劉邦はいきなり或る儒生の顔から冠をひっぺがし、その中へ小便を注ぎこんだことがあった。
ひとつは、劉邦の劣等感がさせたことであろう。彼は卑賤ひせんの生まれというより、天性、行儀が身につかぬたちだったし、それに文字に昏くらかった。
「儒生など、婦女子がしな・・をつくっているようなものではないか、きんたまはあるか」とと言って、いきなり隨何 の股間こかんをつかんだことがあった。
つかんだ上、鳩はとの卵のような嚢ふくろの中の二つのものを掌の中でころころ上下させたときは、隨何痛くもあり、忿いかりも覚えたが、しかし身をすくませて我慢した。
「たしかに、皋こう(睾丸こうがんの睾の正字)があるわい」
と、劉邦はからかった。このことは、二重の意味があった。
隨何は六りく(安徽あんき省)の人間なのである。古い話だが、中国の神話時代の帝である舜しゅんの時、その大臣になって史上最初に法律を作り、刑務所をつくったのが、六人の人で、皋陶こうとうという人物であった。六の人は皋陶を誇りにし、たれもがその子孫であると思っていたから、劉邦はそれに掛けたのである。男子の股間の袋を「皋」という。さらに皋陶とは右の伝説上の人名のほかに、普通名詞でもあった。太鼓のバチをさす。要するに陽根のことである。
隨何は劉邦に忿いかりを見せたことがなかった。
「なぜらぬ。儒学というのはそんなものか」
と言うと、隨何はしさいらしくかぶりをふって、
「いいえ、孔夫子こうふうしの教えは、憤りの上になりたっております。先王の道を説いても、色を好むほどに道を聴きくことを喜ぶ者はまれだということについての憤りが、儒教の基底もとで、儒教は憤りのかたまりと申してもよろしゅうございます」
「それだ」
劉邦は隨何のもっともらしい言い方にうんざりしたという顔で、
「その理屈が好かんというのだ。わしはただなぜお前はそのしたり・・・顔をやめて、たまには男らしく怒ろうとはせぬのかと聞いているのだ」
「大王は、しばしば私を揶揄やゆされます。しかしそれらはつねに人の上うわべを爪つめでおはじき遊ばしているだけで、人倫の本質について挑発されたことはありませぬ。上べの揶揄などに儒者たる私がいちいち腹を立てられましょうか」
「何をぬかすかい」
劉邦は話が込み入ってくると、いつもそうだが、首を振ってむきうへ行ってしまう。
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2020/05/21 |
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