劉邦が逃げに逃げて碭(江蘇省)にたどり着き、そこで敗兵を集めたという事は、すでに触れた。
「さらに西へ行きましょう」
と献言する者があって、戎装じゅうそうもぼろぼろになった兵を率いて、西走して虞ぐ(河南省虞城県)の城郭の中に入った。
虞は、堯ぎょう・舜しゅん・禹うという神話時代から続いているとされる町で、水運水利もよく、後背地こうはいちの農村も豊かで、ここで敗兵を集めれば当座の食糧にこと欠かない。
韓信かんしんや張良ちょうりょうとも連絡がついた。彼らはさすがに手ぶらで逃げていたのではなく、それぞれが各地で敗兵を集め、期せずして西に向かっていた。
「もっと西へ向かいましょう」
と、張良から言って来ている。
具体的には、黄河こうが流域最大の穀物の集積地である滎陽けいよう(河南省)をおさえ、ここを拠点にすることであった。滎陽の穀物倉庫は数十万の兵を食わせることが出来る上に、その西方の台上である劉邦の本来の根拠地である関中台地との間の交通の便がいい。
関中台地では、蕭何しょうかが留守をしている。
蕭何のもとにはすでに劉邦の彭城ほうじょうにおける大敗戦が伝わっており、すかさず関中において壮丁そうていを大々的に募集していた。その新徴の兵を滎陽に向けて送る、と蕭何は言って来ており、それにべつに打合せしたこともないのに韓信は聡さとくも察して滎陽に向かって行軍している。張良もそうであった。張良などは、
「滎陽とそれに西する成皋せいこうの城頭に漢軍の赤旗劉(邦軍の色)を翻せば、日ならずして十万の軍兵を得ることが出来るでしょう」
と、虞城の中にいる劉邦に言って来た。
「みんなでいいようにしてくれ」
劉邦はいちいち気のない返事をした。逃走の疲れが、虞城で出てしまった。顔じゅうが水びたしになったような風邪をひいた上に、なにをするのも物憂く、なにか思いつくと、また俺は敗まけるのではないか、という不安が思案の出口をふさいでしまうのである。
(項羽こううというやつにはとても勝てない)
という思いが、壊疽えその傷口のように日ごと広がっていった。彭城からの敗走中の恐ろしさについては、しばしば夢に見て飛び起きてしまうほどであった。
「疲れた」
ということと、
「役立たずめ」
というのが、劉邦の口ぐせになっていた。
ある夜、営中で左右を見ると、儒生あがりの給仕長の隨何ずいかと、ほか数人しかいなかった。劉邦は物憂くあご・・をあげて、
「なんとつまらぬ男ばかりがわが身に居ることよ、千里に使いをしてわがために運を開くという男はいないのか」
と言った。
この時、意外な事がおこった。
「陛下」
劉邦が思わず身をおこしたほど毅然きぜんとした声が一隅にひびき、よく見ると、劉邦がかねて女の出来そこないと思っていた男が、別人のように両眼を鋭くしている。
「いまのお言葉、腑ふに落ちませぬ。なにか、お言葉の裏には御思案があるように思いますが」
「ある」
劉邦は気疎けうとそうにうなずいた。
「お聞かせねがえませぬか」
「詮せん無いことよ」
と言ったが、やがて語りはじめたのは、項羽の部将の黥布げいふのことであった。
この時期、黥布が、項羽と劉邦との戦いに対して、楚軍に従軍せず、根拠地にあって境涯中立を保っているような様子なのである。
「黥布の挙動があやしい。あの男は項羽に対する忠誠心を棄ててしまったのではないか」
と、劉邦は言った。
黥布については、この稿で、かつてわずかながら触れた。
旧貴族あがりでなく庶民出身であることは、劉邦と似ている。前科者あがりで、盗賊の親方をやったこともあるという点なども、そっくりであった。
この頃の刑罰は、死罪より軽い場合は両脚のアキレス腱けんを切ったり、体に入墨いれずみしたりして、一見して前科者であることの身体的特徴をつくってしまう。たとえば戦国の思想家の墨子ぼくしは、一説によれば入墨者であり、墨子という呼ばれ方はそこから来ている、という。
鯨げいとは、入墨のことである。布ふという男は本来、栄えいというのが姓であったが、英布とよばれず、たれもが黥布と呼んだのは、受刑者に対する軽蔑と怖れが込められていたといっていい。もっとも当人自身、それが自慢でもあった。
この時代、人相見が流行したことも、かつて触れた。黥布もまた少年の頃、ある人が彼の相を見て、この子は長ずれば刑罰を受けるだろう、しかし受けてから王になるに違いない、と予言したという個人伝説を持っている。はたして壮年になって入墨の刑を受けた時、黥布はおどりあがって喜び、人々にふれまわっては失笑を買ったという。
(胴欲どうよくで残忍な男だ)
ということは、隨何もきき知っていた。
きわめて偶然な事に、黥布は隨何と同郷のの人だった。
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2020/05/22 |
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