~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
漢王の使者 (四)
秦末、黥布が驪山りざんの工事にかり出されたのは、劉邦の場合のように亭長ていちょうとして夫役ぶえきの民数百人を率いて行ったというかたちでなく、囚人として刑吏のむちに追われながら現場へ行き、始終囚人組織の中にあって土を運んでいた。このことは、黥布に幸いした。囚人のほとんどは、ごろつき、盗賊、遊び人のたぐいで、各地の顔役もいたから、彼は積極的に縁をつないでまわり、やがてそれらを率いて逃亡し、長江ちょうこう(揚子江)付近へ行って群盗を働いた。
(黥布が親分になってゆくもとは、あくまでいれずみから出発している)
と、隨何などは思っていた。
農民一揆いっき陳勝ちんしょうが秦末の天下をひっかけまわした時、黥布はこの乱に乗じて一旗あげようとし、揚子江のそばの番陽はよう湖あたりで官僚としての勢力を持っていた番陽はよう県の県令呉芮ごぜいを説き、その同意を得、さらにはその娘をもらった。同時に呉芮の人事組織をそっくり譲り受け、それを火種ひだねにしてまわりに山火事を広げるようにして勢力を大きくした。この閲歴えつれきから見られるように、黥布はこの当時の多くの豪傑どもが陳勝のもとにせ参じてその部将になるという形をとったのに対し、よほど自立の心が強かったのか、あくまでも独立の姿勢をとっていた。
(たれが、陳勝づれに。──)
という自負心があったのであろう。もっとも陳勝の勢力がさかんになっていた地域と黥布のいる長江中流は地理的に離れ過ぎていたという事情もあったが。・・・
が、段階はつぎつぎに変わった。項梁が揚子江の下流付近で蜂起ほうきし、楚を私称して急速に勢力を成長させ、その大軍を率いて揚子江を渡った時は、黥布はすすんでこの傘下さんかに入った。自立しなかったのは、ひとつに非力であったためである。自分の武勇には自信を持っていたが、しかし農村に根を下ろし、その信望を得、彼らの食糧を吸いあげて自軍を食わせて行くというこの大陸における独特の政治的徳望とくぼうが黥布には希薄きはくであった。
時代は、急湍きゅうたんのように流れている。日ごとに歴史が変わった。項梁の楚軍も変化してゆき、総帥そうすいの項梁が定陶ていとうで戦死した後、楚軍の中で多少の権力闘争はあって、結局は項梁のおい・・の項羽が血脈相続のかたちで相続した。
── 項羽ごとき小僧が。
黥布は、内心、心外であった。この男に火をくようないくさをさせれば項羽にさほど劣らない能力があったが、しかし内部工作をして権力闘争をするというふうには性格も資質もできていなかった。
(独立してやるか)
とこの時思ったが、しかし農民に人望の少ない黥布には、独立しても兵を食わせることが出来ない。農民たちは項羽に対しては鬼神を仰ぐような超人性を感じているが、黥布に対しては恐怖のみで畏怖いふは感じていなかった。項梁時代の一時期、黥布は劉邦と同僚であった。黥布はいくさ下手な劉邦など眼中においていなかったが、いつの間にか劉邦が独立の勢力として成長して行ったことについて奇妙さを感じていた。劉邦は主として関中の農民から寛宏かんこうな長者として見られており、いわばふしぎな政治的人格を持っていたが、黥布にはその点が性格として理解できなかった。
ともかくも黥布は、新総帥の項羽によるあらたな楚軍成立の時、なりゆきのままその一部将として残り、一見、その境涯にあまんじているといった具合で今日に至った。
2020/05/23
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