秦が亡んだあとの論功行賞で、項羽は十八人の王をつくった。このうち黥布は九江王に封ほうじられた。九江は黥布の根拠地の番陽県はようけんと彼の故郷の六をも含めた広い地域で、彼は故郷に錦にしきを飾るためか、六に都をさだめた。
「王」
などといっても、結局は西楚王の項羽の配下にすぎず、項羽の機嫌ひとつで首がとぶかも知れない不安定な存在であったが、ともかくも黥布は少年の頃に相者そうじゃが観みたとおり、いれずみ者ながら王になったのである。
ところが、九江王になってからの黥布の項羽に対する態度が微妙になった。
項羽の勢力は依然として強大であったが、しかし彼に背く者も多く、北方にあっては斉せいと趙ちょうが反楚の気勢を示し、西方の関中かんちゅうは劉邦の一大補給基地になっており、それらは戦えば必ず項羽によって撃破されるが、いわば蠅はえのむれのようなもので、幾度追ってもきりがなかった。項羽は北と西に敵をひかえている以上、討伐のための兵力がつねに不足し、九江王の黥布の軍に期待しるところが大きかった。が、黥布は動かなかった。項羽が北方の斉へ遠征する時も、黥布は仮病をつかって出征でず、わずか数千の兵を送っただけであった。
項羽の不在中、劉邦軍が項羽の首都彭城ほうじょうを直撃してこれを一時的ながら占領した時もそうであった。黥布は救援に赴かなかった。
さいわい、項羽は首都彭城を取り戻したが、九江の黥布が何を考えているのかということは項羽とその幕僚たちの重要な懸念になっていた。項羽は何度か詰問の使者を六に送った。この詰問は、かえって黥布の態度を固くした。
(殺されるかも知れぬ)
と思い、何度かの召喚命令についても理由をかまえて応じなかった。
黥布は、いわば第三勢力になった。もしくはなろうとし、あるいはそのことで迷っているのであろう。
この黥布げいふの中立が、劉邦にとって救いになっていた。
(なんとか黥布を)
と思った。味方に引き入れることが出来れば、ということは、劉邦ならずとも思いつく智恵であった。まして劉邦は大敗のあとであり、目下の大状況にあっては溺おぼれかかているといっていい。かつて彭城攻めのときに沸わくような勢いで彼に加盟してきた諸勢力も今はほとんどが項羽に降参し劉邦殺しのための爪牙そうがになっている。そういう状況下での落ちぶれた劉邦に、黥布がはたして魅力を感ずるかどうか。
「どうだ」
劉邦は、一座を見まわした。いつの間にか彼のまわりに集まる人数が増えている。
「はるかに淮南わいなん(六は淮南の南にある)に使いして黥布を説得できる者がいるか」
劉邦はことさらに隨何ずいかから視線をはずして一座を見まわしたが、たれもが目を伏せた。隨何のみが顔をあげて劉邦の視線が戻って来るのを待っている。やがて目が合った時、
「私が参りましょう」
と、いやみ・・・なほどの落ちつきぶりで言った。劉邦が不愉快そうに、
「行列の先頭で音楽を鳴らしているようなわけにはいかんぞ」
と言ったのは、彼は儒者というものをその程度にしか見ていなかったのである。
隨何も、理屈ぎらいのこの劉邦の前で長広舌ちょうこうぜつをふるう気はなく、ただ、
「陛下は私が六の出身であることをお忘れあそばしましたか」
と、それだけを言った。
(そうだったな)
劉邦には、こういう言い方が理解しやすい。即座に使者が隨何であることを決めた。 |
2020/05/23 |
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