~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
漢王の使者 (六)
そのうち項羽が大攻勢をおこし、にせまったため、劉邦はあわを食って西へ走り、黄河南岸の滎陽けいよう城に入った。
すでに張良ちょうりょう韓信かんしんがこのあたりを要塞ようさい化していた。
先秦せんしん時代から秦にかけてこの中原ちゅうげん の黄河沿岸の滎陽城がその西隣の成皋せいこう城を含めて政権の租税 ─とくに穀物─ の一大集積地であることは幾度かふれてきたが、それだけに城壁は高く、厚く、城門は厳重で容易に外敵に略取されることがない。
ただでさえ堅城であるにに、張良と韓信が知能の限りをつくして堅固で周到な防御工事をほろこしつつあった。まわりの大小の城市との間に長大な甬道ようどう(両側に胸壁をきずいた道路)をつくって連絡しあい、兵と兵糧ひょうろうを往来させるのに便利なようにし、さらには甬道だけでもそれを胸壁として防戦できるようにことさらに壁を高くしてあった。
蕭何しょうかが留守番をする関中台地との間の訓示交通もじつにうまく行っていた。蕭何は間中の食糧を函谷関かんこくかんを経て次々に送り込んでおり、また蕭何が徴募した関中兵も、すでに滎陽、成皋にあって訓練をうけつつあった。
(これか、これがわが城か)
劉邦は内心雀躍こおどりする思いで滎陽の城門に入った。隨何は門外までついてきて、ここで劉邦に別れを告げ、南の方のりくに向かって出発した。
劉邦は滎陽の城内で、張良と彭城の大敗戦以来、久しぶりで顔を合わした
「彭城以来、大変だったなあ。漢の運はもはや尽きたかと思った」
劉邦が言ったが、張良は相変わらず晩春の陽ざしに柳がかすかにゆれているように容貌が静かで、戦いというものは波があるものですよ、と言っただけで、劉邦の顔をじっと見てから、
「お疲れはとれたようですな」
と、言った。問題は劉邦の健康とその気魄きはくの持続である、と言いたげであった。
劉邦は、黥布げいふに使いを送った、と言った。
「使者は、たれになさいましたか」
「隨何だ」
と劉邦が言った時、張良の表情にかすかな変化があった。劉邦は内心、人選を誤ったかな、と思ったが、色には出さず、あいつは六の出身なんだよ、と言った。
「隨何はいつ出発しました」
「たった今、この滎陽の城外から出発した。しかし隨何のやつ、なぜこの城内に入ろうとしなかったのだろう」
「それは」
と言ってから、張良ははじめて笑った。
張良が隨何の心を察するに、城内に入って張良に会えば張良が自分で行こうと言い出すのではないか。と思ったからにちがいない。それほどに重要な使いであった。隨何が張良を避けてまでみずから任じているのなら死を決しているのでしょう、と言った。
「隨何が死を?」
劉邦はおどろいた。
儒生じゅせいでもあえて死ぬのか」
「婦人でもときに矜持ほこりのために死にましょう」
「ではなぜ彼はから出発しなかった」
「千里へ使いする者は、背後が堅固であるということで、はじめて自信を得ます。虞のうらぶれた陣営から出発すれば相手に対する迫力が弱くなりましょう。ひとめでも、漢の滎陽城の守りが堅固だということを見ておきたかったのだと思います」
「張子房」
劉邦は鄭重に呼んだ。
「隨何は、黥布を説得できるだろうか」
「むずかいいでしょう」
張良は、さらりと言った。劉邦はおどろき、ではそなたに行ってもらえばよかったのか、と言ったが、張良は切るようにかぶりを振って、
「たれが行ってもおなじです。黥布という厄介な男が相手である以上。──」
張良のいうのはたとえ対黥布工作がうまくゆかなくてもこの滎陽けいよう成皋せいこうそれに敖倉ごうそうの防衛線を強靭きょうじんにし、後背の関中とたえず連絡をとり、項羽が来れば善く戦い、この一線で項羽軍を防ぎ切ってしまわなばならぬ、今は何事にも期待すべきでない、と言った。
「それにしても、わが漢の弱さよ」
と、劉邦は言ったが、自分の事はたな・・にあげていた。
「漢の弱さは、将軍たちがだめだからだ」
「ちがいます、韓信がいます」
張良は、韓信の卓越していることが劉邦の認識以上のものだと述べ、さらに彼への信頼をいっそうあつくなされよ、と言った。
2020/05/24
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