~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
漢王の使者 (七)
随何は南に向かって旅をかさねている。
数日して項羽の大軍が、滎陽けいよう城とそれにつらなる城々を囲んだという報を得た。
(あの城なら百日は保つ)
隨何は、平地ながら連山のように、甬道ようどうをもってつながれた劉邦の城々を思った。劉邦の運命の終息までまだ百日の期限がるということであった。
随何は、劉邦を決して敬愛してはいない。
が、儒者というのは、非戦主義の墨子ぼくしの徒や無為むいを説く老荘ろうそうの徒とはちがい、言い切ってしまえば仕官を目的とする。少なくとも官についいぇはじめてその思想を役立てることが出来る道なのである。
仕える主としては同郷の黥布げいふは不適当であった。残忍すぎてじん忠恕ちゅうじょの儒教をいけ容れる可能性がまったくなく、項羽も似たようなもおであり、その中では劉邦がいかに儒徒のもったいぶりがきらいでも素質のどこか仁の粗鋼そこうのようなものがあり、少なくとも仁に隣りあわせたふしぎな愛嬌というものがあった。そのことにいつかは儒教を容れるかも知れないという匂いを、隨何はいでいる。
随何は劉邦に勝たせたかった。
少なくとも項羽が勝てばどうなるか。
項羽はひとたび自分の配下になった者に対しては肉親のように愛するが、裏切るか、あるいは無縁の者に対してはどんな残虐な事でもやった。降伏して自軍に組み入れられた旧しん兵二十五万を新安の黄土の陥没層の地帯においてことごとくあなうめにしたというすさまじさは、仁ということとおよそ遠かった。
それに、楚の義帝を南方の蛮地ばんちに追い、さらに人を追わしめてこれをしいしている。その悪虐ぶりは忠恕という倫理感情からおよそ遠い。
南へ行く隨何にとって、困ったことがある。
(黥布は、なしがたいことをやった男だ)
ということであった。かつて新安で旧秦兵二十万を生きながらにあなに放り込んで土をかぶせた直接の指揮者は黥布であった。あるいは非力な義帝の後を追ってこれを長江の船上で殺したのも、命令者が項羽であるとはいえ、執行者は黥布であった。むろん義帝の弑殺しいさつの場合、黥布がじかに刃の柄を握ったわけではなく、これを自分の仲間にやらせた。仲間というのは、以前、黥布と共に旗上げをした亡秦の番陽はよう県の呉芮ごぜいで、この黥布の義父はそのつながりによって、この時期、項羽から衡山こうざん 王という称号をもらっていた。呉芮がやったのせよ、仕事そのものを請負うけおったのは黥布である。
項羽は黥布の残忍な性格を道具として使ってその仕事をやらせたともいえる。
そういう黥布を隨何は説き、味方に引き入れようとするのである。 
(人として、まちがっていないか)
随何は、劉邦から請け負った仕事とはいえ、道中、血が泥のように濁ってゆく気持ちの重さをおぼえつづけた。
彼は、儒教の典籍てんせきのあらゆるものを思い出しては、自分の行為が間違っているかどうかを確かめた。
随何がもし不戦と不殺を説く墨子の徒ならこの仕事を請け負わなかったにちがいない。老荘の徒であっても、べつな思考をしたかと思われる。墨子も老荘も、その思想は多分に人の世の現実から飛躍しているだけに論理の密度が高い。ひとり儒教の場合、とくにこの時代の原始的なそれの場合は、論理の網の目が精密とはいいがたく、要するに現実の猥雑わいざつさを礼楽れいがくによって秩序立てることだけが眼目になっていた。
(まあ、いいだろう。劉邦を勝たせるためには虎狼とでも手を握らねばならぬ)
と、随何は自分に言いきかせた。
2020/05/25
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