~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
漢王の使者 (八)
随何は車騎しゃきをひきいて旅をしている。
彼はかん王の名をはずかしめないために随員を多くすることを劉邦に頼んだ。劉邦はいかにも儒者らしい大仰おうぎょうさを鼻で笑ったが、それでも官吏だけで二十人というたいそうな陣容を組んでくれた。
使節団長である随何の従者、または団員の従者、あるいは護衛豚、それに荷運びの者などを入れると総勢三百人を越える一団になった。
随何は儒者として、その配下に服装をやかましくいった。
りくの城壁が見える所まで来ると行列を停止させていっせいに新品の衣服、甲冑かっちゅうに着かえさせた。
「服装をただすことがすなわち九江きゅうこう(黥布)への畏敬を示すことになる」
それが礼というものだ、と言った。儒教の本質のひとつと言ってよかったが、ともかくも一行が六の城内に入った時、市中のたれもが彼らの行装ぎょうそうのきらびやかさに驚いた。
随何は物のゆきとどいた男であった。すでに先発者をして黥布へ面会を申し入れさせてあったが、その者が城門で随何を待ちうけており、車にちかづいて、
「だめだ」
と、言った。
「黥布はくびをたて・・に振らないよ」
(あるいは談判は不調に終わるのではないか)
という不安が随何の胸を不吉な鳥の影のようによこぎったが、しかしそういうことよりも随何にとって重要だったのは、先発者のそういう者の言い方であった。この者は本来、随何と同僚なのである。しかしこのたびは仮に随何が長になっている。
「私を私らしくうやまえ」
と、語気するどくたしなめた。それが礼というものだ、とも言った。お前たちが私に礼さえもちいれば私は尊貴になる。漢王の使者である私が尊貴にならねば漢王をはずかしめ、ひいては九江王を辱めることになる、さらに言えばせっかくの談判も不調に終わるのだ、と言った。
「礼とはそういうものだ」
随何がいうのに対し、その男は、
「黥布が会わないと言っているのに礼もくそもあるものか」
と、不快そうに言った。しかし随何は車上の風邪に吹かれながらそういう鄙声ひせいなど耳に入らぬというふりをつくった。
六は、すでに触れたように、随何の故郷である。
城内には旧友や親戚が多く、中でもようという男が縁者である上に旧友であった。その男の屋敷を宿舎とした。
楊は肥った男で、黥布に早くから仕え、太宰たいざいという職についていた。
太宰という官は古代では大臣などを指したが、この時代は内容が変化し、王の食事や宴会を司る役人を指す。六は古い文化が沈殿した土地だけに随何のような謁者えつしゃや、楊のような太宰に向いた人間を出すらしい。
「私は君命を奉じています」
随何は旧知の楊に対しひどく他人行儀な言葉を使い、任務が終わるまでそうおう態度でいたい、とことわった。むろん黥布に面会を申し入れるのにこの太宰を通じてやったことは、いうまでもない。
が、黥布の返事は、にべもなかった。
その上、まずいことに、─ 項羽 ─の使者もやって来ていて、日ごと黥布と交渉をかさねており、ただでさえ項羽への冷淡を疑われている黥布としては、漢王劉邦の使者などを引見いんけん出来るはずがなかった。
「どうも、望みはないようです」
楊太宰が言ったが、随何は動ぜず、大王だいおうは間違っておられます、と言った。
「楊太宰、よく聞いて下さい。大王が、楚の使者にはお会いになるが漢の使者は遠ざけるという態度をおとりになるのは、楚が強大で漢が弱いと思い込んでおられるにすぎません。その認識をお改めにならない限り、大王の滅亡は火を見るよりも明らかです、そのように申し上げて下さいませんか」
と、言った。
「私は、太宰にすぎない」
楊は、困ったように言った。
「大王のお食事の時、お耳のそばで、味付けはいかがでしょうか、と申し上げるのが私の仕事だ。政治向きのことを再度申し上げるなど、ぶんに越えたことだ」
「楊太宰よ、あなたは大王が滅んでもいいとおっしゃったのか」
随何の顔が、おのの刃のようにするどくなった。
「私は、死を決している。漢王に対してでなく、九江王に対してです。もし私の説くところを聴かれてそれが非であればよろしく私をこの城市のいちで刑殺し、そのしかばねを楚の使者にお見せになればよい。それによって大王の楚への忠義も明らかになる」
随何は、自分が黥布に説得しようと外交上の内容よりも、まず使者としての自分の死骸の価値を説いたのである。まず話を聞け、というだけでなく、話がつまらぬと思えば殺せ、私の死骸はあなたの楚に対する外交上、非常な価値を持つはずだ。というこの言葉は、利にみを考えている黥布の思考法に、一分いちぶのすきもなくかみ合った。
(なるほど、やつは自分の死体を提供しに来たのか)
太宰から話を聞いた黥布は、すぐさま随何と二十人の使者を呼ばせた。おっかぶせて「鄭重ていちょうにな」と言い添えたのは、黥布にとって奇貨が二本足で歩いて来た感じだったからである。
2020/05/25
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