ひと目をはばかることであった。
このため随何らがの宮殿に入ったのは、日没後である。
庭には軍士たちの守る篝火かがりびが燃えているが、回廊は暗く、先登せんとうで楊よう太宰たいざいがかかげるわずか一穂いっすいの灯火をたよりに右へ行き、左へ折れた。たれもがたがいの袖そでをついかんでいなければ、一歩も歩けないほどの暗さであった。
(死とううのはこういう暗さか)
と思うと、随何は奥歯が鳴った。
黥布は、閨ねやにいた。
この男は転戦した各地で女を得ては物でも貯ためるように後宮こうきゅうに入れた。秦しんの章邯しょうかん将軍をそこで破った鉅鹿きょろくの女もいれば、項羽こううと共に関中かんちゅうに乱入し、秦都咸陽かんようを略奪した時に得た秦の後宮の女もいた。あるいは挙兵早々に得た九江きゅうこうあたりの楚その女もいる。それぞれ言語が通じにくいが、黥布には女と言葉を交わすという必要がなく、ただ日没後、しの一人を選んでは無言で執拗しつように愛撫するだけであった。
が、この夜、黥布は女がいぶかるほどにうつろ・・・であった。
(さて、漢の使者に会ったものかどうか・・・)
と、自明のことを心の中で自問し、問うてみても答えが出ぬままに心を女から離してしまう。黥布は戦場では悪鬼のように強かったが、我が身のふり方となると、信じ難いほどに小心であった。
そのくせ、大望がある。
この男は、後年にその証拠があるが、天下を望んでいた。
始皇帝しこうていのあとはおれが継ぐと正気で思った者としては、無名の頃の項羽がいる。が、この乱世に浮沈したほとんどの群雄は器量相応の欲望を持つのみで、天下という、なにやら蒼天そうてんと同じほどに大きなものを得ようとした者は数少なかった。一人が、黥布であったことはまちがいない。
黥布は、項梁こうりょうが死んだ時、
(なぜ項羽を殺さなかったか)
という悔いが、潰瘍かいようのようにひろがっている。黥布が項羽の叔父の項梁の傘下さんかに入り、歴戦してやがて項梁が楚の懐かい王(のちの義帝)をたてたとき、項梁はみずから武信君ぶしんくんを称し、黥布に対してはとくに当陽君とうようくんを称せしめた。項梁は黥布の戦場におけるすざまじい武勇をそういう形で認めざるを得なかった。武信君が戦死すれば当陽君であるわしが立つ、と黥布は思っていたのに、衆望は結果として項羽に帰した。
黥布は、劉邦りゅうほうとその勢力があのように成長してくると思わなかった。
その劉邦が、項羽の留守中を狙ってその首都彭城ほうじょうをおとしたとき、あの沛はいの不良あがりの男のもとに集まった雑軍が五十万を越えたという。その時の黥布のおどろきが、彼を局外の位置へ走らせたと言っていい。漢楚を激闘させその漁夫ぎょふの利を得ればあるいは天下がころがりこんでくるのではあるまいか。
が、楚は黥布の中立を許さなかった。
漢も、随何という使者を送り込んで来て、自分をその側へ引き寄せようとしている。
(今しばらくじっとしていれば)
天下は必ず黥布に向かって好転する、とこの男は思っているのだが、しかしこの算用のただひとつの ── しかも致命的な ── 欠点は、中立を維持するための強大な武力を持たない事であった。
九江王としての封地ほうちはひよどりの巣ほどに小さく、軍勢といえば、たかだか一万を動員できるにすぎない。
このため、結局は思案が旋回してもとの場所にはまり込んでしまうのである。楚に対してたて・・つけば攻め滅ぼされるに相違なく、滅亡と死をまぬがれようとすれば今六りくに来ている使者と共に項羽の陣営にゆくしかない
(項羽の機嫌を損じたことはまずかったかも知れない)
とも、この欲望の割には気の小さすぎる男は、この早まった第三勢力への転換を後悔もしていた。
黥布は若い頃好んでばくち・・・を打った。その頃、もし九江程度のわずかなもとで・・・で天下を賭かけものにするような大ばくちを打つ男を見れば、大笑いしたにちがいない。その愚か者が自分だという事が、このぎりぎりの段階になってわかってしまった。
黥布は女を離した。
扉の外で、宦官かんがんの声がしている。来客が待つこと久しい、という旨を告げているのである。
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2020/05/26 |
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