陳平は、陽武ようぶ県(河南省)の人である。
── 貧ひんもあの男にまでなるとめずらしい。
と、郷党のたれもが言ったが、しかし、その容姿からは想像も出来ない。白皙はくせき巨眼、見るからに聡明そうめいな容貌をもっていた。この時代、こういう押し出しがどれほど重要なことであったか、のちの世の想像もつかないことである。
陳平の姿のよさを思った者が、
「陳平さんは何を食ってあのように美々しく肥ふとっているのですか」
と、陳平の嫂に聞いたことがある。
嫂の素姚そようは、陳平を憎んでいた。
「ですよ」
彼女は言った。
「あんな穀ごくつぶし」
と言い、まあたまには米麦べいばくのくずは食べさせますけどね、と言ったという話は、陳平の二十はたち前のことで、郷里の戸牖郷こゆうごうというでは有名な話になっていた。
彼の故郷は典型的な黄土層地帯の農村であった。大地が黄牛おうぎゅうの背のようにゆるやかにうねり、野はよく耕され、樹々はすくなく、秋になれば真青まっさおな天が村を覆った。
彼の家は里りの郭そとがこいから一戸だけ郭外に離れていた。いつの時代か、他郷から流れて来た家であったことがわかる。陳家は両親が早く死に、兄の陳伯ちんはくがわずか三十畝ぽしかない田の中で終日這いずりまわって耕していた。弟の陳平としては兄の作男さくおとことして働くべきであったが、鍬くわを持とうとすると、兄の陳伯が叱った。
「いいんだ、お前は学問しろ」
陳伯は矮人こびとといえるほどに小さく、顔が猿の尻のように赤ばんでいて、笑うと薄皮がはちきれていよいよ赤くなったが、陳平とはちがい、気の毒なほどお人よしであった。彼は子がなかったせいか、自分とはちがった体格と頭脳をもった弟が自慢で、
「里中りちゅうではみなおれの家とおれを軽んじている。しかしおれには平へいがいる」
と素姚にも言うのだが、彼女はそのつど腹が立った。
(この人は、平のためなら身を売って奴隷にでもなりかねない)
彼女にすればこの貧家に嫁入りしたことも不孝であったが、どんなに忙しくても草一本も引かないばけものを家の中で飼っていることも、気の障さわりであった。陳平は兄から麦むぎや布をもらっては陽武の町の学問の師匠のもとに通っており、家にいる時は訪客も多かった。客があれば、素姚としては捨ててもおけず、鍋なべぞこの飯こげ・・を湯で掻かきまわしたものでも出さねばならない。
「あの小僧は、それをありがたいとも思わないんだよ」
と、素姚は里中の女たちにこぼした。
「何様なにさまと思っているのだろう。あいつの血は、ひょっとすると蛇へびのように冷たいんじゃないか」
兄を牛馬のように働かせて何とも思わず、町へ行って大地主の若旦那のように学問している。尋常の神経で出来る事ではない。
素姚は小柄で、ばね・・のきいたを持っていた。口ほどに働き者ではなかったが、気が向くと狂ったように働いた。麻あさの実を蒔まくのがとびきりうまかった。ひさごを二つに割った器うつわを左の小わきにかかえ、風向きを見て実をつかみ、右の肘ひじをきらめかせるようにして蒔いてゆくのだが、素姚がやると里中の社しゃの祭礼で舞っているようにふしぎなリズムがあった。
もっとも陳家には麻畑はなかった。素姚は他家に雇われてこれを蒔き、いくらかの麦や粟あわを貰って来るのである。ある年、この麻の実まきの季節だった頃の出来事である。陳平はその日、陽武の町に出ていた。
帰路、陽がかたむいた。通りがかった畑は暮色ぼしょくに包まれており、小さな人影が、褐色かっしょくの夕闇ゆうやみにあやうく溶けそうになりまがら手足を舞わしている。しばらく見とれていたが、やがてそれが嫂の素姚であることに気づいた。
(あの女が、これほど可愛かったか)
陳平は足音を忍ばせ、やわらかい土を踏んで近づいてみた。素姚は気づかない。この義弟はながい臂ひじをのばして、瓜うりでも賞めでるように、嫂のまるい腰を両掌でそっと持ちあげた。
素姚は小動物のように跳びあがってしまった。ふりかえって相手が陳平であることに気づいたのと、つまさ・・・・きが再び土に突き刺さったのと、陳平の大きな腕の中に抱かれるのと、ほとんど同時であった。
素姚はこの時の気持を自分でも説明出来ない。声をあげなかった。待っていたように土の上にくずれたのはあるいは平素陳平にはげしい関心があったからだとも思われるし、あるいはそうでなく、蛙かえるが蛇に見入られたようにごく自然に力が抜けて大地に身をゆだねるようにして陳平のなすがままに身を開いたのかも知れない。これについて、陳平には自責の気持はなかった。彼は老子ろうしのいう自然という言葉が好きであった。
平へい、家ニ居ルトキ、其ノ嫂ヲ盗とうス
と、のちのちまで陳平が人に言われるようになったのは、この時の情景を見ていた村人がいたのであろう。
陳平はあるいは女好きの部類に入るかも知れない。
陳平は老子教団に属している」。ある時、陽武の町に住む師匠のもとで『老子』を読んだ。谷神こくしんハ死セズ、是こレヲ玄牝げんぴんト謂いフ、玄牝の門、是レヲ天地ノ根こんト謂いフ、という『孔子」の文章は高度に形而上的な思想を、女陰(牝ひん)というよな形而下的な用語で表現したものである。谷の水が尽きないように一見弱々しいながらも牝の能力は綿々として尽きることがない。天地の根とはそのようなものである、と老子は言う。そのくだりを読む時の陳平の想像力は老子が誘い込もうとする形而上世界へは翔とびたたず、玄牝の粘膜を嗅かぐような生々しさの方にとらわれ、読むたびに吐息をついた。
陳平は老子が好きであった。老子の自然は、孔子教団の説く道とは違った魅力があり、陳平は講義を受けている時、その魅力に浸る切ることが出来た。
しかし体質の一部では油が水をはねかえすように老子とは適あわなかった。たとえば老子は無為むいを説く。
が、陳平は無為を嫌った。
さらに老子は、儒教じゅきょうの徒が仁じんという虚構を立て、人為的な方法で世の中を変えようとすることをあざ笑い、宇宙の奥の絶対の本体に世も人も同化してゆくことを理想とし、個人としては幼児のように無為自然の姿に帰ることを説いた。また作用は反作用を生むだけのことだ、と説いたが、陳平はこの点も、体質として受け容いれがたかった。この男は、この世で、なにごとかおのれのはからい・・・・による作用をしてみたいというたち・・に生れついていた。権力に近づいて自分のその能力をためしてみたいという欲求で、体中の毛穴から焦こげ臭い気が噴ふき出るようにいらだっていた。そういう男が老子を好んでいるということは矛盾というにちかかったが、しかしあり得ない事ではなかった。随順している思想とおよそ体質が適あわない男ほど、かえって甚はなはだしくその思想の教祖と教養にあこがれることがあるのではないか。
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2020/05/30 |
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