~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
陳平の毒 (三)
秦末、陳勝ちんしょう一揆いっきがおこって以来、天下大乱になった。
陳平らの住む地域はかつてのの故地であったが、陳勝が亡魏の公子で庶人しょじんになっていた魏咎ぎきゅうという者を立て、魏王を称せしめた。
陳平はこの風雲に乗じた。
といっても一介のさと住まいの身で勢力といえるほどのものをおこせるわけはなかった。わずかにの少年二十人を引き連れて魏咎のもとに行ってつかえただけであった。さいわい魏咎は陳平の美丈夫ぶりをでて彼の乗物をつかさどる役人にしてくれた。陳平は自分の多能をもてあましている男だけに、魏咎にしきりに建策したが、このにわか仕立ての魏王には陳平が何を言っているのかもわからなかった。
魏咎の家来といっても多くは流盗かやくざ者で、彼らの目から見れば陳平が変に知識人ぶってひとを見下しているように見え、そのくせ術が多く、諸事ゆだんのならぬ男のようにうつった。彼らは魏咎に讒訴ざんそした。
陳平の長所と欠陥は、危険の予知能力がありすぎたということであろう。讒訴の噂を聞くと、噂だけで夜、荷をまとめて魏から逃げてしまった。
ときに項羽こううの勢力がすさまじい勢いで伸びていた。彼は赴いて項羽の軍に入り、戦えば必ず小功をたてた。
「なかなか気のきいたやつだ」
と項羽は思い、目をかけた。
項羽がついに秦軍をやぶり、劉邦を関中かんちゅうから追い出し、傘下さんかの諸将に対し大いに論功行賞をおこなったとき、陳平に対し、けいの待遇を与えた。
項羽の論功行賞は不公平が多かったが、とくに陳平については過賞であった。諸将は、陳平については卿の礼遇を受けるほどの軍功はない、と論評し、そのことが項羽の耳に入った。項羽は、
── あの男の風采ふうさを見ろ。
と言った。陳平が、その涼し気な目、色つや・・のいい顔、それに堂々たる体躯たいくでもってとくをしたことは、この一事でもわかる。故郷の戸牖郷こゆうごうの張負老人のいったことが誤りではなかった。
項羽は天下を定め、彭城ほうじょう(いまの徐州)を根拠地にし、その後、北方のせいがさわいだので、北伐ほくばつした。そのすきに漢王の劉邦が東進してきて器でもくつがえすように一挙に彭城を占領したことはすでに触れた。項羽は彭城を回復すべく軍を返して急進中、いんが反乱を起こしたという急報に接した。殷へ討伐にやる適当な将が手もとにいなかったため、陳平を起用した。
「陳平よ、ただの卿では士卒がお前に心服すまい」
と言って、とくに信武君しんぶくんという尊称を称することを許した。この時期、各地の王たちがくんを乱発していて、価値はよほど下がっていたが。
陳平は兵を率いて遠く殷の地へ行き、これをまたたく間に平定して項羽のもとに戻った。
「やはり風采に恥ずることのないやつだ」
と項羽は大いに喜び、陳平を都尉にした。都尉といというのは旧秦の時代、郡の長官の下にいて軍事を司った官で、近代軍隊で言えば中佐か大佐ぐらいに当たる。
(その程度にしかこのおれを見ていないのか)
と、陳平はむしろ失望した。常識でいえば郷関きょうかんを出る時わずか二十人の手下しか持たなかった陳平が項羽の引き立てによって楚軍の都尉になったというだけでも奇蹟に近い。が、陳平は彼を評価した項羽の方を、低く採点した。
(所詮しょせんは、項羽というのは人間がわからない)
と、思った。陳平は都尉として小部隊をひっさげて戦場で力闘するよりも、帷幄いあくにあって千里のかなたで勝敗を決したり、あるいは政略によって大局を変化させたりすることの方に自分の才能があると思っていた。
もっとも項羽の側には事情がある。たとえ項羽が陳平のその才に気づいたとしても、この幕営にはすでに范増はんぞうという軍師がいる。
亜父あほ
と、項羽が父にぐ人として呼んでいるこの老人についたは項羽は大きな尊敬と信頼をもっており、いま一人軍師を置くというような失礼な事をするはずもなかった。項羽の人としてのよさはそういう情のあつさにもあった。もっとも欠点としては范増に対し信頼ほどにはその策を用いていないことでもあったが。
── いっそ范増に認められたい。
と陳平は思い、その後、幾度か范増に接触して意見を申し述べた。
2020/06/02
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