彼は劉邦とその軍を求めて野を行き、水を渉わたった。
ときに彭城ほうじょうで大敗した劉邦はその後、四方をさ迷いつつ軍をかき集めており、一方では滎陽けいよう城(河南省)の守りをかたくして籠城ろうじょうの準備をしている時期であった。
陳平は、投降という形をとった。
さいわい、劉邦の陣中には、陳平が魏咎ぎききゅうに仕えていたころに親しかった魏無知ぎむちという亡魏の旧貴族がいる。
「私は陳平と申します。魏無知どのと旧誼があります。かのお人に会いたい」
と、漢兵に捕らえられてはそう言い、ときに魏無知の名を連呼しながら通り抜け、ついに漢軍の軍門の中でこの旧友に会った。
魏無知は、肥満している。えい・・が春の海で泳いでいるようにとりとめもない体つきの男で、とりたてていうほどの才もなかった。しかし陳平をほとんど熱狂的なほど好きであった点、陳平の兄の陳伯ちんはくにどこか似ていた。陳平という男はときにこういう陳平好きに出遭であうべく運命づけられていた。
「ああ、ああ」
と、魏無知は陳平を抱き、涙をこぼして喜んだのには、劉邦の中涓ちゅうけん(近侍の小役人)たちも驚いてしまった。
「あなたが漢軍に投じてくれたのは、わが漢王陛下の御運の強さというべきだ。陛下も喜ばれるだろう」
と言ったため、中涓たちも容易ならぬ人物が到来したように思った。中涓たちがそういう気分で取り次いだために、魏無知の熱気がいきなり劉邦に伝わってしまったと言えるかも知れない。
劉邦は陳平を引見いんけんした。ひとめ見て、
(こいつは、ただの魚ではない)
と、思い、わざわざ席を設けて食事を支度させ、陳平を招しょうじたばかりか、彼が連れている戸牖こゆうの無名の少年たちを陪席ばいせきさせた。劉邦一流の行儀知らずでそうしただけであったが、少年たちは感激し、肉をしばしば箸はしから落としたほどであった。
陳平も命がけで劉邦を観察している。しかしこの時の劉邦はひどく淡白なそぶりで陳平に対し、食事が終わると、
「平へいさん、宿舎を用意させてあります。ゆっくり休養しなさい」
と、劉邦のはめずらしく田舎大尽だいじんめいた鄭重ていちょうな言葉づかいで言った。陳平は冗談じゃない。と思った。劉邦の心を攬とるのは初対面のこの熱っぽい時間の内でなければならない。むろん陳平は劉邦に媚こびようとしているのでなかった。
「大王よ、私は休ませていただきたいのではありません」
と言った時、陳平の巨眼がうるみ、白皙はくせきの顔が桃色に色づいた。劉邦はおどろき、陳平にわびた後、部屋を片付けさせて陳平の言葉を聴く姿勢をとった。陳平は体中から血を絞り出すようにして、情勢を語り、分析し、項羽軍の長所と弱点を述べ、漢王としてとるべき道を説きに説いた。
(大したやつだ)
聞き終わって劉邦は思ったが、しかし食後の劉邦は兎うさぎを呑んだ後のうわばみうわばみのように身動きも神経もにぶくなっていて、陳平の鋭い論説にうまく対応出来なかった。
「 そなたは、今まで楚の軍営にいた」
低い物憂ものうげな声がひょうたん・・・・・の蔓つるでも伸びてゆくように黒いひげの中から出て来た。分かり切った事だけに陳平は内心驚いたが、ともかくも「おりました」と答えた。
「官位があったろう」
陳平の胸の中に失望が広がった。すでに楚にあるときの官位は魏無知を通じて言ってあったし、今の話の中にも、一、二度、出している。劉邦は世間でいう以上に鈍どんな男ではあるまいか。
(しかし鈍な男ほど配下としては働きやすい。総帥そうすいとしては項羽よりましなのではないか)
と思い返した。
「官位はございました」
「官位は何であったか」
劉邦はなおものびやかに聞いている。
「都尉といでございます」
「ああそれなら今日から都尉に任じよう」
劉邦があっさり言った時、陳平は喜ぶよりも、なにか大きな穴の中に吸い込まれるようなおそろしさを感じた。が、同時に劉邦のあまさを思った。項羽は配下に官位や封土ほうどを与えるのに老婆が小銭を出しおしみするように吝嗇りんしょくであったが、一方、劉邦の放漫さも世間では定評になっていた。
相手の人にんの善悪賢愚をろくに見さだめずに物をくれてやったり、高い身分を与えてしまったりすると世評で言う。この噂が存外的まとを射ていること陳平は身をもって知ってしまった。
「不満かや」
いつの間にか劉邦は陳平の顔をのぞき込んでいた。陳平はあわてて、
「とんでもございませぬ。漢に対して何の功もない一介の逃亡人に対し、身にあまる栄誉でございます」
「でもあるまい」
劉邦は鼻くそでもほじくるように、
「おなじ都尉でも、楚の都尉は重く漢の都尉は軽いと思っているのだろう」
と、声をあげて笑いだした。陳平は劉邦が世評をよく聴き知っていることにおどろき、先刻の感想を胸の内で取り消しつつ、
(どうせ馬鹿だろうが、ただ馬鹿にするとひどい目にあいそうだ)
というふうに思いなおした。 |
2020/06/03 |
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