~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
陳平の毒 (八)
(これでしまいか)
陳平は、使者に接した時、思った。手を洗ってしたたりを切るように、あっさり現在の地位についての執着心を捨てた。このあたり、老荘ろうそうを学んだ功というのかも知れない。
陳平は滎陽城へ向かった。途中、魏無知から使いが来て、告発のいちいちを教えてくれた。その中に以外にも嫂の件があった。陳平に自責の思いはない。兄の陳伯ちんぱくをなつかしく想いだした。陳伯はいまなおあので三十の田をひっかいて暮らしていた。老子が言う「道」真にそう者は兄の方かもしれないと思った。
(嫂上あねうえも今となればなつかしい)
と、思った。女としての素姚そようが念頭に横たわらず、依然としてあによめという家族秩序の目上としての彼女を思ったのは、陳平の奇妙さであるかも知れなかった。彼にとってはsの一件も自然の中に正体もなく溶けはてていた。あの故里に冬の雨が降り、春の草がえ、秋のしもが野を白くすると同じような現象のなにごとかであったのであろう。兄の陳伯も、その後、そのうわさを知った。が、そのことで弟を一切責めず、逆に素姚に対し、陳平への態度の悪さを責め、離別してしまった。のち素姚は他村で再婚したという。
要するに、陳平にとって、すべてがなにごともない。
劉邦の前に拝跪はいきした。
「先生」
と、劉邦はもはや陳平が家来でないかのように、他人行儀な呼び方で呼んだ。
「あなたは、牧童が馬を乗りかえるようにして主を乗りかえて来た。心が多すぎるというべきではなかろうか」
と、婉曲えんきょくに言った。
「陳平の心は一つでございます」
「どういう心だ」
「わが言説を用いてもらいたい、という心でございます」
王のきゅうは少しも自分の説を用いてくれなかった。士としてなんのために主に仕えているか分からず、結局、項王に期待して魏王のもとを去った、と陳平は言う。
「項羽はどうであったか」
「項王という御人は、人を信じるということが出来ませぬ。項王が信任し、寵愛する者は、項氏一族とその妻の兄弟のみでございます」
たしかにそうであった。項羽は楚人らしく血縁を異常に重んじ、このため項羽が天下に雷鳴をとどろかせるようになると、旧楚のあいだからありが這い出て枝落ちのすももにたかるように項姓の者が彼のもとに集まり賢愚を問うことなくことごとく重用されている。楚の軍営でいま羽振りのいい者といえばみな項姓の者であった。異姓の他人に対しては牆壁しょうへきをかまえてこれを隔てときに白々しく、ときに猜疑さいぎする。この壁をかろうじて破っている者は軍師の老范増はんぞうのみでございましょうか、と陳平は言った
「その点、漢王は異なると聞きました」
たしかに劉邦は劉氏をなつかしまない。故郷にいる長兄に対しては疎遠で、嫂に対しては終生これを憎み、その長兄夫妻の子供たちについても顧みるところがない。なにしろ劉邦は自分の長子でさえ、敵から逃げる時に車から何度も突き落としたほどに、変にかわいたところのある男であった。
「わしは自己を愛さない。ただ天下を愛するのみだ」
と、劉邦はそれが本心なのかどうか、この男にしてはめずらしくまとまったことを言った。
「ひとは、あなたが賄賂わいろをとったという。その一件はほんとうか」
軍中、私腹を肥やす将軍で有用の男がいたためしばない。劉邦はこの点で陳平に申し開きが出来なければ追放しようと思っていた。
「本当でございます」
と言ったから、劉邦はおどろいた。ただ、賄賂で将軍たちの地位を上下したことはなく、ただ有能な者をひきたてた場合、金品を持って来させたことはたしかにあった。
「臣は丸裸で漢の門軍に投じた者でございます」
金がなければ容儀を整えることも出来ず、直属の家来に行賞することも出来ない、ともかくも軍隊を統御するのは金がる。その金を用意したかっただけで、取り上げた金は今のところほとんど使っていない。それらの一切は箱に詰めて封印してございます、もし陛下にして臣の策が用いるに足りないとされるならばその金をしかるべき職掌すじに返納し、漢軍の門を出て行きましょう、と言った。
へいよ」
劉邦は大声をあげた。立ちあがって陳平の肩をつよくたたき、
「今日からそなたを護軍中尉ごぐんちゅういにする」
護軍中尉というのは王権の一部をにぎる者で、全軍の将軍たちを監督する。都尉といよりもむろん上であった。劉邦は即刻この新人事を全軍に布告した。周勃しゅうぼつ灌嬰かんえいもおとなしく服した。彼らも根がかしこい男だけに劉邦がこの陳平といういわば毒物を用いる上でよほどの理由とはらづもりを持ったことを知ったに違いない。
2020/06/04
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