kokoromotonaku


~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
陳平の毒 (九)
天下の耳目じもくは、滎陽けいよう城に集まっている。
「ねずみの巣のようなあんな城を」
ひとひねりせよ、と項羽こううは全軍をむち打つように督励とくれいした。野という野は兵で満ちていた。
劉邦りゅうほうは巣に潜り込んだねずみにひとしい。彼はその兵力のほとんどとともにこの城にこもり、さざえ・・・が蓋をするように諸門をかたく閉め防戦していた。
黄河のほとりに、span>敖倉ごうそうがある。
しんの時代から、黄河の水運で運ばれて来た租税の穀物をここに陸揚りくあげしてたくわえたところである。
敖倉は低い小山の上にある。小山といっても黄河の氾濫はんらんで黄土層(黄色の石灰質土壌)が隆起してできた山で、粉状の土であるため掘ることはたやすい。
敖倉その他この種の倉については幾度か触れた。小山の上に巨大な穴を掘ったのが倉であった。
黄土層であるために地下水が出て来るおそれはない。ただ黄土の微小な一粒づつが水気を含んでいるので湿気を遮るための材料で大穴の周りを塗り固め、さらに木炭その他を入れ吸湿の作用をさせ、おのあとはじかに大穴に向かって穀物を流し込むのである。上にはもちろん大屋根をつける。それだけの装置でった。敖倉の小山にはこの種の穴倉が無数にある。
これが滎陽城の漢軍を支える命の源泉もと であった。
漢軍はこの敖倉の小山を城塞じょうさい化している。この敖倉と滎陽城の間は、野をはるばると横切って長城のような甬道ようどうが築かれていた。甬道についてはすでに触れたが、さらに言えば道の両側に煉瓦れんがを積んだ壁が築かれた道路のことで、兵員や輸送員の往来を敵からまもる。一定間隔を置いて煉瓦だての大きなやぐらが積みあげられ、接近する敵を射殺するのである。
滎陽城と敖倉を結ぶ甬道こそ漢軍の動脈であった。
同時に弱点でもあった。
── 甬道を叩き壊せば滎陽城はえてしまう。
ということは戦の素人でもわかった。
項羽は滎陽城を十重とえ二十重はたえに囲む一方、つねに新手あらての強襲部隊をくり出しては甬道を襲い、そのつど掛矢かけやでたたきこわした。
漢軍は主として灌嬰かんえいとその部隊が甬道防衛に当たっていた。絹商人あがりの灌嬰は弱い漢軍の中では得難い将であったろう。機敏と勇敢で鳴った楚兵が襲撃してくるごとに飛んで来る矢の中に身をさらし、諸兵を叱咤しったしてよく防いだ。灌嬰は部署がら、夜はほとんど眠るということがまかった。昼、敵影の見えない時に盗むようにして仮眠した。
この甬道攻撃に項羽自身が来て直接指揮したことがあった。
その襲撃ぶりは天地が晦冥かいめいするかと思われるほどにすざまじいもので、項羽が陣頭に立つのと立たないのでは楚兵の活気がこれほど違うものかと思われた。
── 滎陽がちれば天下は定まる。
と、項羽の軍使范増はんぞうが言っていただけに楚軍の士卒ひとりひとりの気魄きはくがちがっていた。
それだけに攻防戦は長かった。
劉邦が滎陽城に籠ったのは紀元前二〇五年五月の熱い頃である。戦いが終わるのはその翌年五月であった。
戦いの経過でいえば、開戦七ヶ月の十二月には、滎陽城の兵も民も飢えはじめた。甬道への間断ない打撃のために食糧を運ぶ能力が大いに落ちたのである。
年が明けると、甬道はところどころで寸断されるようになった。このためわずかな食糧でも運ぶ時は灌嬰が大軍をもって甬道にこもる楚軍と激闘したあげくでなかればならない。
(どうやら、滎陽城も、これでしまいか)
元来、失望という感覚ににぶい劉邦もさすがにはらわたにすきま風が吹きとおっているように心もとなく、なにを見ても弱気の種になった。
(わしが、項羽に勝てるはずがない)
という思いが、日ごとに強くなった。
彼の立場は、古今のごの作戦家が見ても。悲観的であったであろう。滎陽城は、いわば孤軍であった。各地に工作者を派遣してはちっぽけな豪傑どもや流賊の親分をそそのかし反楚活動をさせてはいるが、条件としては数値にならないほどの微々たるものにすぎない。ふつう孤城を守る場合、死守していればいつかは強大な友軍が救援に来るという条件下でのみ成立つのである。
この城にはそういうあて・・などはない。もっとも城内の士気のためにはさまざまな架空の状況をつくって自分たちの戦いに未来があることを幻想させてはいた。しかし、その幻想が破れるのは時間の問題に違いない。
むろん、劉邦にも強味はあった。
彼は最前線にいる。彼の後方(西方)はすべて彼の座敷であることである。黄河を西へさかのぼれば函谷関かんこくかんであり、この関も彼のものである。関をくぐれば広大な関中かんちゅう平野があり、蕭何がいて善政をき、人心をよくつかみ、一時期の凶作を脱し穀物はよくみのっており、最前線で不足する兵はたえず蕭何の手を経て送られて来ていた。いわば劉邦はたえずけ金を補給されているばくち打ちと言っていい。
だからといって滎陽城が陥ちればあとは間中へ逃げ込めるという甘い考えを劉邦は持っていなかった。ここで敗れれば士卒が劉邦を見限って散ってしまうおそれがある。戦いというのは、本来、勢いである。劉邦方の勢いがしぼみ、強楚の方は逆にその大波に乗って一挙に関中へ攻め入るだろう。
十二月に、劉邦が項羽を牽制けんせいすることで期待した黥布げいふが、牽制の効果を果さず、身一つで滎陽城に逃げて来た。黥布は領地も士卒も置き去りにしてきたために劉邦の戦力にならなかった。
2020/06/05
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