kokoromotonaku


~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
陳平の毒 (十)
この正月、劉邦はついに心のはりを折ってしまった。
さすがに降伏はしない。、あだ余力がある間に、その余力を背景に和睦わぼくを項羽に申し入れたのである。
「私は滎陽けいようから西をかんの領土にしよう。天下は大王だいおうよ、あなたのものだ」
というもので、いかにも理屈めいたものだが、劉邦にすればすべてを失うよりもましだということであったろう。
項羽の陣営にやって来た漢の使者は礼を尽くし、言辞は慇懃を極め項羽の気分をやわらかいものにした。
(それもいい)
と、項羽は漢の使節団に接していてそう思った。理由などない。相手の自分へのうやうやしさ、あるいは相手が正直に弱味をさらけ出して哀願するのに接した時など、項羽という稀代の感情の激しい男は、つねにそのようにやさしくなってしまうのである
(この小僧の癖がはじまったわ)
范増はんぞうは、もはや、そういう項羽を憎悪した。范増は使節団を休息させるために別室へ去らせた後、項羽に説諭した。
「和睦せねばならぬ弱味が、楚のどこにありますか」
とどなりたかったが、項羽の体面を重んじ、漢軍の状況を説いて、
「漢はもはや死にひんした病人と同じです。もし和睦すれば再び関中の富を得て強大なもになりましょう。あなたは劉邦がいる限り天下人てんかびとではない。今こそ楚の全力を挙げて劉邦の息をとめてしまうべきです」
と言った。
項羽は范増に対しては素直であった。その言葉に従い、劉邦の使者に対し、
「せっかくであったが、れられない」
と答えた。使節団はここでいっせいに哀訴した。それでは漢王が哀れでございます、漢王は心から大王の封侯ほうこうになることを望んでおられるのです、と言った。
「和睦は、ならぬのだ」
劉邦の使者は、
「では、大王から御使者を滎陽にお送り下さって漢王自身にそのお言葉をお伝え願う、というわけには参りますまいか」
と言った。このくだりだけは、陳平ちんぺいの策であった。
(もっともなことだ)
と、項羽は思った。いかに敵味方に別れているとはいえ、先方からの使者を受ければ当方から答礼の使者を送るというのが礼であった。
「いつ送るか、期日は約束できぬが、必ず送ろう」
と、項羽は内心大いに喜んで言った。使者とはいえこの場合滎陽城の弱り具合を偵察させるという効果があったからである。
老范増も攻撃を再開し、煙もあがらぬほどに傷めつけてからしかる後に偵察を兼ねた使者を送るのが得策でしょう。
と言った。つまりは、項羽も范増も、陳平の遠謀にかかった。

劉邦は帰来した使者から報告を聞いたあと、 陳平 ちんぺい を連れて 望楼 ぼうろう に登った。見はるかす戦野はなお冬の色であったが、望楼の煉瓦の隙間に生えている褐色の雑草から青い芽が吹きはじめていた。
劉邦はその芽をつまんで口に入れ、
「春の香りだ」
と、子供のような笑顔をつくった。あるいは はい の郊外の での少年時代を思い出していたのかも知れなかったが、陳平にすればこの になってさすがにしたたかなものだと思わざるを得なかった。
「陳平、なにか起死回生の策があるのか」
と言った時の劉邦の顔はさすがにこわばっていた。
「ないこともございませぬが」
しかしぬずかしいことです、と言ってから劉邦を刺すように見て、むずかいいという意味の中には成功するかどうか、ということもあります。失敗してもなお陛下は失望なさいませぬか、と言った。
「失望せぬ」
「いま一つむずかしいというのは、陛下」
と陳平の唇がゆっくりと開閉した。・・・私の人格をおうたがいになるということがないかどうか、お疑いをうけるようでは陳平は立つ瀬がありませぬ、という。
「疑いはせぬ」
「毒を用います」
「・・・・」
劉邦はいぶかしんだ。 項羽 こうう ほどになると厨房はよく管理され、料理人も厳選されている。外部の者が毒を飼うなど不可能な上に、この時代、少量でもって人を殺す毒など、噂にはあっても現実には無いといってよかった。
陳平はかすかにかぶりをふえい、
「その毒ではございませぬ。さらに甚だしいものです。私をお信じ下さいますか」
「成功をか」
私の人格です」
(何度言わせるのか)
劉邦は、厚い唇をまげた。
「信ずる」
「されば、陛下から黄金を一万 ぎん いただきます」
劉邦は即座にその係の者を呼び、金の保有高を調べさせた。五万斤ばかりあった。
「四万斤あたえよう」
と言ったのは、劉邦の度量であろう。
「使途についての 出納 すいとう はいちいち明かせませぬが、よろしゅうございますか」
「わかっている。自在にせよ」
2020/06/06
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