その日から陳平の暗躍がはじまった。
漢軍の中には、かつて楚にいた士卒が多い。その中から俊敏な者を選び、二百人の秘密組織をつくった。二百人とも陳平個人に属するようにした。陳平はその一人ずつに面接し、入念に使命を言い含め、活動方法を教え、ふんだんに工作費を与えた。
「みな、よく見ておけ、おれの目は、こういう目だ」
陳平が瞼
をあげると牛ほどに大きな目になり、睛ひとみが中央で火を点じたように輝いた。
「お前が楚軍に入り込んでどういう功を立てるか、この目でよく見ている。功を立てれば金を与える。万一、殺されれば故郷の遺族のもとに金を送ろう」
と、言い、また、
「金を吝おしむな、楚軍の中で同志をみつけてばらまくのだ。決して漢の間諜かんちょうであると気づかれるな。この土地の父老ふろうの配下の者だと言え。父老はみな項羽の暴をきらっている。たとえ老父の名を騙かたっても、あとで納得してくれるはずだ」
工作すべき目的は、ただ一点しかない。
項羽その人に、彼の配下の諸将たちの忠誠心を疑わせるのである。
陳平ちんぺい自身も諜者になり。楚軍の中に潜入し、旧知の者に大金を与えた。
半月ほど経って劉邦は久しぶりに陳平を見た。
「どうだ」
「うめく行っております」
と、陳平ははじめて工作の内容を話した。むろんこの工作は陳平が考えている謀謀はかりごとのうちの一部に過ぎない。
「項王はすぐれた人です。その人柄も、身内や配下に対しては決して粗暴ではなく、礼をもって諸将に接し、家来であるからといって人をあなどるということはしません」
陳平がにわかに項羽を礼讃しはじめたのには劉邦もおどろいた。劉邦というのは配下にとって話しやすい男であった。ひとつには卑小な自意識がなく、妬心としんも少なかったからであろう。彼の敵である項羽をほめても、劉邦は真顔で、
「そうだろう、項羽はすぐれている」
と、うなずくのである。
「そこへゆくと、配下は礼がなく、町のごろつきのような言葉づかいで賢者あ勇者に対されます」
「ごろつきのような、というが、おれはごろつきだったのだ」
劉邦は言う。
「賢者や勇者は自尊心が高うございます。このため陛下のもとに集まって来る将領」といえば何人かを除けばくず・・のような男ばかりでございます。みな陛下の気前の良さをいいことに集まった者でございますから、欲ばかりが深く、節義に欠け、陛下のためなら死ぬという者が少のうございます」
「まあ、そうだ」
劉邦はこの種の直言については、たれがそれを言っても怒らない。このいわば能なしの男の巨大な德の一つといってよかった。
「そこへゆくと、項王の諸将はちがいます」
陳平はいちいち名をあげて言った。
亜父あほ(范増)を筆頭に、鐘離昧しょうりまい、竜且りゅうしょ、あるいは周殷しゅういん・・・とあげてから、これらの人々は将軍として卓越しているだけでなく、項羽の臣下に対する礼と愛に応こたえ、廉潔れんけつで私心なく、それぞれが人間として大きな峰をなしております、という。
「わかっている」
劉邦は言った。
「しかし項王にも疾やまいがございます」
と、陳平はいう。
「猜疑心さいぎしん」
と、陳平は言った。彼の工作は項羽のこの強烈な酸性の部分に向かってひとすじに集中されているのである。
「陳平よ、もう教えてくれてもよかろう。工作とは、何をやっているのだ」
劉邦は、はじめて聞いた。
陳平はくわしく語った。楚軍における右の傑出した四人の将軍が、漢の常識では信じられないようなことだが、実質的な行賞を受けていない。つまり項羽はこの大功のある者に地を割さいいて王にしていないのである。項羽の吝嗇りんしょくによるものであった。
── そのことを右の四人が不平に思っている。働いたところで猟犬りょうけんのようなものだとこぼし、それによってすでに漢に通じている。項氏を亡ぼした後、それぞれ王になる。漢王が約束したところである。
という噂を、陳平は楚軍の隅々までばらまきつつあった。
「あの四人が」
わしに通じていると項羽に信じさせるのか、と劉邦は言った。
「哀れなことだ」
劉邦は、あの鋳物で鋳いあげたような鐘離昧の顔を思い出した。戦場で死ぬのはよい。あらぬ疑いを受けるには惜しすぎる好漢ではないか。
陳平はいやな顔をし、陛下がそういう感想を持たれるから私はあらかじめあれほど念を押したのです。賭博とばくは気魄でございます。勝っている時ならともかく、負け続けであるのに相手に同情するなど、それだけで陛下はすべてを失われてしまうでしょう、と言った。
(よく喋しゃべるやつだ)
と劉邦は思いつつ、ことさら笑顔をつくってあやまった
「しかし他の三人はともかく、范増という山はそういうことで崩れるだろうか」
と言ったのは、范増という存在がすでに劉邦だけでなく漢軍の中でさえ畏敬いけいされるまでになっていたからである。
「亜父については、さらに試みねばなりませぬ」
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2020/06/07 |
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