~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
陳平の毒 (十三)
使者たちが滎陽の城内に入ると、非常な歓待を受けた。
(なんということだ)
交戦国ではなく友好国に紛れ込んだのかと戸惑うほど、まず美麗な休息所に案内され、次いで劉邦が臨時に王宮にしている建物に入り、豪華な宴会場に通された。
すべて陳平の指図によるものであった。ただし陳平は顔を知られているということもあって、表には出ない。
劉邦は宴会場の入り口で彼らを迎え、ひとりずつ肩を抱くようにしてなかに招じ入れた。
城内は餓えていると聞いていたのに、料理の豪家さは使者たちが今までに見たことはないほどのものであった。
(これは太牢たいろうだ)
と、使者たちは目でうなずき合った。太牢ろいうこの奇妙な言葉は、あるいはこの時代の俗語から出たのかも知れない。肉に、牛、羊、豚の三種がそなわっている料理のコーシをさす。
さらに贅沢ぜいたくなことに、宴席の隅に物をる青銅のかなえまないた まで持ち込まれ、調理人が出張して好みのものを即席で調ととのえるという演出までなされていた。
「このたびはよくこそおでくださいました」
と、平素不作法な劉邦が、顔じゅうを崩して挨拶をした。
使者たちは平和を拒絶する口上こうじょうを述べねばならないだけに大いにとまどった。しかしともかくも、
「項王大王はつつがないきや、と申されておりました」
と、挨拶を述べ始めたとろ、劉邦は顔色を変えた。
急に態度をあらあらしくして、
「なんだ、諸君は項王の使いか。私は范増はんぞう老人がよこした御使者であるかと思った」
と、言い、宴会の主宰者を呼んで、
「料理を片付けろ」
と、言った。漢側の陪席者たちも多くは退出し、かわって別の料理が運ばれて来た。ひどく粗末なものであった。
使者たちは、これによって真実・・を知った。
そこそこに用件を終えるとまっすぐに項羽のもとに帰り、人払いをして滎陽城内で目撃した事実を述べた。
項羽は、はたして范増を疑った。
たまたまこの翌日、范増が急攻の必要を説いた。
「滎陽城の朝夕の様子を見るに、もはや垂死すいしの病人と同じです。これ以上の長囲はかえって味方の士気を殺ぎます。急攻すべき時でしょう。先鋒せんぽうはそれがしが承ってもよろしいです」
と言った。
(なるほど、これは劉邦としめしあわせている)
項羽は思った。が、いままでと尊称してきた相手だけにその疑いは顔にも声にも出せず、考えておきましょう、と答えただけで、この献言はとりあげなかった。
それだけでなく、范増が去ると、彼の部署を、城壁近くから最後尾にひきさげた。さらに、この翌日、范増を軍議に呼ばなかっただけでなく、その結果もらせなかった。項羽のこの無言の措置そちで、范増は第一線の将軍でもなく、さらには軍師でもなくなったのである。
2020/06/08
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