紀信はたしかに豊邑ほうゆうの人だが、この動乱時代の最初から兵になったわけではなく、王陵や雍歯が募兵に来てもわずかな田畑を守って応ぜず、
「私には老父がいる。益体やくたいもない兵になれるか」
と言って相変わらず土を掻かいて暮らしていた。ひとつにはこの世のどの他人も気に入らず、雍歯や王陵についても悪口ばかり言っていた。里りの父老ふろうが心配し、
── お前は決して兵になるな。
紀信にも言い、募兵官が来ても勝手に紀信の名を名簿からはずしてくれていた。父老にすれば紀信の性格で兵になれば上長の悪口を言う。首がいくつあっても足ることがあるまいということで配慮してくれていたのである。
「百姓というのは天職だ。決して野心を持つな」
と、父老は紀信に言いきかせていた。
「おためごかしなこことをいう」
紀信はその父老をさえ蔭かげではげしく悪口を言っていた。
紀信には周苛しゅうかという友人がいる。おなじく小柄だが、性格は重厚で、およそ他人の品評をするといことがない。父老が周苛をも募兵名簿から外はずしたのは、紀信が軽挙して飛び出さないように周苛に言い含めておいたからであった。
「紀信よ、お前はなぜ人の悪口を言うのだ」
と、ある時、村はずれの沼のそばで草を刈りながら周苛が聞いたことがある。
「そんなに俺は言うか」
紀信は言った。それにしても周苛は紀信にとって何を言ってもうなずいてくれている存在であっただけに、その周苛がやや攻撃的に質問してきたことで、石が物でも言ったように驚いたのである。
「紀信よ、お前はこの世でたれよりも自分が好きなのか」
この日の周苛は多弁であった。この世で自分だけが好きだと言うなら世界中の他人を好むまい。周苛はそのように思った。
「お前はつまり、自分以外は認められないのだな」
と、周苛は言い重ねた。
「苛よ」
紀信は忿いかを含んで言った。
「俺の気質がわかっているはずだ。俺は、たれよりも俺自身がきらいだ」
(困ったな)
周苛は思った。好悪こうお論では言葉の遊びになってしまう。
「別のことを聞こう。つまり、お前は認められたいのか。世間のたれもがお前をかえりみないというのが腹立ちのもとなのだろう。たとえば父老でさえお前の才を認めぬ。死ぬまでこの里のこの田畑にお前をしばりつけておこうとしている。もとより父老の親切心からなのだが、お前は誤解をして父老をののしってばかりいる」
「忘れたか、俺に老いた父がいるのを。兵にならないのは俺みずから選んだことだ。周苛、お前は本来鈍どんで、眼前のおれの人間さえ見えてない」
「むろん、俺は鈍だ」
周苛はしばらく考えた。じつのところ周苛はそろそろ里を捨てて兵になろうと思っているのだが、かといって紀信を置きすててゆくわけにはいかない。連れて行くには絶えず毒煙を吐いている紀信の気質を矯ためせるか、すくなくとも煙の出所でどころを塞いでおかねばならないと思ったのである。
「ちょっと聞くが、劉邦さんうぃを好きか」
と、周苛は水をむけてみた。
「きらいだ」
紀信は言った時、はじめて鎌を持つ手を止めたb。関心はあるらしい。
「なぜ、きらいだ」
「あいつは馬鹿だからな。しかし馬鹿もあれほど大きな馬鹿になると、大小の利口者が寄って来るらしいな。そこへゆくと雍歯なんどは戦に強いばかりで欲得だけでかたまっている。王陵は何だろう、小型の馬鹿かな。あるいは水溜りのような馬鹿だな。そこへゆくと劉邦は泗水しすいが氾濫して野を浸しているような馬鹿だ。際限というものがない」
「それならば、劉邦さんを好きになりたいか」
と周苛が言った時、紀信は振り返って息を詰めたような顔になった。
(こつは、劉邦さんが好きだな)
周苛は思った。この世で誰か一人だけ好きな者を作りたくてうずうずしているのがこの紀信のいらだちのもと・・ではないか、とかねて思っていたのが、あるいは中あたっているかも知れない。世間には孔子こうしを好きな者もあれば、遠い昔の墨子ぼくしのためなら生涯餓えてもいいと思っている者もいる。紀信がそういう教団に属していれば心の始末がついたかも知れないが、不幸にも文字を知らず、人を好きになりたいという気質だけである。気質が目標めあての見つからぬままに黒煙を騰あげて駈かけまわっているのがこの男の悪口癖あっこうへきではないかと思うのである。
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2020/06/11 |
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