蘆綰
は、むろん
紀信
きしん
の顔など知らない。この日、彼は配下に探させず、灌嬰にことわって自ら城壁や望楼を廻って探した。その探し方も素朴で、
── 紀信というやつは、どこにいる。常日頃、陛下の悪口を言っている男だ。
と言って廻ったため、たちまち城壁中に広まった。蘆綰がある望楼に近づくと、一人の兵が降りて来て、
「私です」
と、言った。蘆綰の目から見てもさほどに小男のように思えないのは、顔が
俎
まないた
のように大きいせいいかも知れない。じつは
周苛
しゅうか
であった。身代わりになってもいいと覚悟して名乗り出たのである。紀信は幸いにも今朝から前線の甬道に入っている。周苛は、もしあの男がひっぱられれば尊貴の者の前でどれほど毒づくかも知れず、そうなれば当然、
斬刑
ざんけい
に処せられる、と思った。ともかくも名乗って出、
悪口癖
あっこうへき
は紀信の病気であること、その魂は氷のように透き通って純であること、入りくんではいても陛下への随順心はたれよりも強いことなどを開陳するつもりであった。その上で殺すと言われるなら先ず自分が殺されようと思っていた。戦国の
沸騰
ふっとう
した社会の中で形成された自然の倫理のなかで友情という奇妙なものがあり、倫理というより、ときに宗教感情のようにはげしいものであった。
周苛は蘆綰によって縄打たれ、
劉邦
りゅうほう
の前に引き出された。おどろいたのは劉邦の方で、すぐ
縛
いまし
めを解かせ、座を与えて、
「退屈しのぎに呼んだのだ」
と言った。
「お前がわしの悪口をどのように言っているのか聴きたかっただけのことだ。ところで、
沛
はい
県の
豊邑
ほうゆう
の人間だそうだな」
(劉邦というのは、こういう声か)
周苛は夢の中にいるように思考がぼんやりしてしまっている。劉邦の顔は知っているが
咫尺
しせき
で見たのは最初であり、まして声を初めて聞いた。林の中で遠いほら貝の
音
ね
を聴くように、ふじぎな魅力があった。
「豊邑の話をしてくれ」
と言って、周苛の
里
り
を聞いた。劉邦はその里のそばの小川も知っていたし、里の門のそばの土橋も知っていた。驚いたことに土橋のふちに
実生
みしょう
ではえた小さな
櫨
はぜ
の木までおぼえていた。
「あの里は、元来、優しい人ばかりいるのだ」
と、劉邦は言った。あの櫨は触れるとかぶれるのだが、せっかく鳥がこの里に
実
み
を落として行ったのだからといって里人は
伐
き
ろうとしないのである。
「しかしわしにとってはつらい土地だった。みんんあ悪口を言っているだろう」
「・・・陛下の」
周苛は重い口を開いた。
「悪口を子守唄のように聞かされて育ったのです」
「この大乱以前のことだな」
「乱
勃発
ぼっぱつ
後もそうでございます」
むろん乱勃発以後は、多分に創作された悪口を
雍歯
ようし
や
王陵
おうりょう
が言いふらしたのである。
「お前自身がいう悪口は、どういうものだ」
「陛下」
周苛は不意に涙をあふれさせた。感情の整理がつかぬまましばらく黙っていたが、やがて自分は紀信ではありません。紀信は今
楚
そ
軍と戦っております。私は周苛という者で、おそれながら私と紀信との関係は陛下と蘆綰どののごとくでございます。 すでに死は覚悟しております、その前に事情をお聴きくださいますか、と言った。
退屈していた時でもあり、劉邦は時間をかけて聞いた。
聴き終わると、劉邦は大きな掌をあげ、卓子を博うち、
「わかった」
と、言った。
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2020/06/12 |
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