~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
紀信の悪口癖 (九)
劉邦はただちに周苛を抜擢ばってきし、親衛隊の長にしようとしたが、周苛はことわった。ありがたすぎることでございますが、抜擢されれば紀信を出し抜いたことになります、今まで通りの身分でよろしゅうございます、と言って辞し去った。劉邦の胸に、風に似たものが吹き抜けたような印象が残った。
(周苛があれほどのやつなら、紀信もきっとおもしろい男に違いない)
と思い、数日して再び蘆綰をやった。
蘆綰は城壁の上で、紀信に会った。
(なんと、いやな奴だ)
と思ったのは、かわのすり切れた官給の粗末な戎服じゅふくを着て、一堆いったいごみのようにうずくまり、目だけを光らせて、不必要に笑っているのである。質問にも、ろくに答えなかった。
「陛下が周苛をお呼びになって話されたことは、周苛から聞き及んでおろう。一方の将軍たるわしみずからお前のような卒伍そつごの者のもとに来ておる。申すまでもなく陛下のありがたき思召しによるものだ。もっとつつしまぬか」
「おそれながら」
と言ったのは、傍らの周苛の方である。
「この紀信めは、これでも口を開くことを堪えに堪えておりまする」
堪えているだけでもうい・・やつだと思ってやってほしい、と暗に言うのである。あご・・を緩めさせればどのように蘆綰を罵倒するか。
蘆綰は、今から言う事は大王のお言葉である、として、宮殿に来て中涓ちゅうげん(王の身辺の雑用をする役人)をつとめないか、と言った。ただし、周苛に対してだけである・劉邦は紀信にも興味を持ったが、内廷には秘密が多く、口うるさい男を置くわけにはいかない。
周苛は礼を言い、しかし今のままでいい、と言って断った。
「本心か」
蘆綰は言った。中涓は身分こそ高くないが、たえず劉邦の目に触れるため、ときに将軍に抜擢されることもあり得る。周苛は嬉しかったが、紀信をこのままにして自分だけが栄達するわけにいかない、と言った。蘆綰はいったん劉邦のもとに戻り、もう一度やって来た。
「陛下があらためて仰せあるには、それほどに言うなら今のままでよい、ということだ。ただし両人とも中涓の心得でいてよろしい。ということはいつでも内廷に入って来て客の接待などしてかまわない、つまりはいつでも陛下のおそば近くへ行く資格がある、ということだ」
この旨、蘆綰は灌嬰かんえいに伝えた。灌嬰はこの両人が気の向いた時に漢王に拝謁はいえつできるという資格を持つ以上、下士にしておくわけにはゆかず、一挙に自分の副司令官格に引き上げた。
以後、両人は灌嬰の兵をあずかり、甬道の守備隊長として楚軍と戦った。兵たちの多くが流民や野盗のあがりとはいえ乱にあることが古く、戦いの手だれになっている。紀信・周苛はいわば素人しろうとに近かったが、しかし紀信の機敏な感覚は防戦に役立ち、周苛の重厚さは、よく兵を統御した。
2020/06/12
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