桐の花が咲くころ、滎陽けいよう城の籠城も極限にきた。
漢軍の強味は、北方の関中かんちゅうの穀倉地帯をおさえていることであった。それ以上の強味は関中に蕭何しょうかがいることであったろう。蕭何は劉邦りゅうほうに代って関中の人心をよく慰撫し、その物資や兵員を黄河こうがづたいではるかに滎陽城に運んでいた。籠城の初期は、それで滎陽はうるおった。滎陽の父老などは、
── 滎陽がこのように繁昌したことはかつてなかった。
と言った。籠城の中期以後となると、項羽こううが蕭何の兵站へいたん線をふさいだため、滎陽城の食糧は甬道ようどうを通じて敖倉ごうそうから運ばれるもののみになり、後期には、それも項羽によって断たれた。
(こんな籠城は、何の役にも立たない)
と、早い時期から思っていたのは、張良ちょうりょうであった。
籠城戦は、いずれ巨大な援軍が来るという条件と期待のもとに行われるもので、目下の漢軍の状態はただ穴倉に逃げ込んだけもの・・・にすぎず、穴の口を項羽にふさがれて衰弱死を待つだけの体ていになっている。
(だいたい、漢王がここにっていることからして間違っている)
そもことは、最初の段階こそ士気を高めるたことに役立った。が、今となれば漢王みずからが好んで雪隠せっちん詰めになっているにひとしい。
張良は、先ず机上の案を考えた。
劉邦を関中へやり、その地および漢中かんちゅう、巴蜀はしょくから大いに兵を募り、みずから援軍を率いてこの滎陽を項羽の重囲から解放することである。
滎陽の手持ちの食糧は尽きようとしている。兵員を五分の一に減らせば劉邦が救援に来るまで食いつなげるに違いない。五分の四の兵力は、なにか魔法でもって蒸発させなかればならない。魔法といえば劉邦がこの城から消えることも、超自然の力を必要とする。
「これは、夢ですが」
と、張良は劉邦に献策した。
「しかしこの夢を実現させないかぎり、漢軍はこの滎陽で自滅するほかありません」
「どうすればよいか」
「陳平ちんぺいは奇策の人です。彼にご相談なさるほかないでしょう。陳平がもし策を考えつけば、一言半句の修正もせずに採用なさることです」
張良は陳平の人柄を好まなかった。が、奇術家のようなあの男の才能をそれなりに買うようになっていた。奇策は、それ自体の論理で完結される。他から嘴くちばしを容いれれば奇術が成立しないことも張良は知っている。
陳平が、再び劉邦の幕営の主役として登場する。
劉邦は自分の身の始末を含めて一切を陳平に任せた。
(この術には、死士が最小限、二人は要る)
死士のうちの一人が、奇術のたね・・になる、たね・・が死ぬことによって奇術が展開するのだが、陳平は先ず奇術のたね・・になる男を劉邦の身辺で物色した。
(蘆綰ろわんでもむりだな)
と、思った。文武の大小の官を見わたしたところ、張良のいう一尺の土地でも得たいという欲得ずくの連中ばかりで、虫のようにこの滎陽けいよう城頭で死ぬという男は居そうになかった。
ただ周苛しゅうかいる。陳平は紀信きしん・周苛の一件を耳にしていたが、人にんとしては周苛しか知らない。周苛だけが時々劉邦の内廷にやって来て、そのあたりを掃除したししているのである。
ある日、陳平は、周苛お呼んだ。奇術のすべては言わなかったが、その一端を洩らして、引き受けてくれるか、と聞いた。
周苛は頭を垂れて、即答しなかった。
(こいつ、逃げる気か)
陳平は打ち明けてしまったことを後悔した。が、やがて周苛は笑顔になり、
「いいお話だと思います。ただ紀信がどう思いますか」
紀信に相談せねば答えられない、と言う。周苛がその持場に戻ろうとするのを陳平はあわててとめた。この極秘のたね・・をやたらと陣中で洩らされては困るのである。
「紀信をここへ呼ぼう。いや、ここではなく陛下のもとに呼ぼう」
と、言った。劉邦の眼前で話をしたい。もし紀信がかぶりを振れば守秘の必要上監禁する、というところまで陳平は頭を旋回させていた。 |
2020/06/12 |
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