紀信が甬道で兵を指揮していると、劉邦の上使がやって来た。
「このわしに、か」
と言うのがやっとで、あとは目まいがした。が、そのように感激する自分をあさましく思う気分が他方にある。そのほうの紀信・・・・・・・が、
「ばかをいえ」
と、上使にどなった。
「目の前で楚兵がよじ登って来ようとしているのだ。用があるなら交替「した後で来い」
夜になった。紀信が交替して城壁の上にいると、再び上使がやって来た。こんどの紀信は、おとなしかった。戎服じゅうふくのまま上使に同行した。下腹から臓腑が溶けたように力がなくなり、脚の骨がふるえた。
(なんということだ)
胸中、くりかえした。
(劉邦など、なんだ)
思おうとしたが、言葉が途中で蒸発してしまう。紀信は、劉邦という人物についての自分の歴史を思おうとした。豊邑ほうゆうにいるころ、人があまりに劉邦の悪口ばかりいうために劉邦びいきになった。
当初はひいき・・・というよりも、せっかく豊邑から出た人間の悪口をいうことはあるまい、という程度の感想だったが、雍歯ようしが一時豊邑一帯を占拠して魏ぎと通じ独立の気勢を示し、やがて劉邦と戦った時、狂おしいほどに劉邦びいきになった。魏というような他国となぜ通じねばならないか、豊の出である劉邦を豊の人々はなぜ敵視せなばならないかと思うと、豊の連中のたれもが憎くなった。もっとも当時。紀信は農夫にすぎない。
滎陽けいようの籠城戦に参加してからは、兵としてあれほど働きながら、当の劉邦に対しては拗すねた思いでいた。
── 俺のような劉邦好きが卒伍の間にいるという事を劉邦は知るまい。
と思うと、劉邦の全てを罵ののしりたくなった。むろん劉邦の側近、謀臣、将軍たちのすべてが気に入らなかった。あいつらは欲得で働いているだけだ、と思い、そう思うと文武の高官のすべてが盗賊のように見えて来た。その盗賊を擁して黄色い天蓋の車に乗っている劉邦までが憎くなり、蔭口ながらあらゆる悪態をついてきたが、それらは劉邦好きが昂こうじ切って内攻し、子供のひきつけ・・・・のように自家中毒を起こしてしまったことに似ているのではあるまいか。
(そういうことだ)
ということも、紀信はわかっている。
劉邦は多くの密告者を持っている。それらの一人が、この紀信という無名の下士の蔭口について劉邦の耳に入れ、それについて劉邦が紀信に関心を示したということを聞いた時、紀信はあやうく昏倒こんとうしそうになった。嬉しかったのである。自分の様な者について劉邦が話題にしたと言うだけでも、紀信にとって戦慄すべき事態であった。その結果、中涓ちゅうけんの処遇を与えられた。以後周苛は、内廷に出入りしたが、紀信はその特権を一度も使ったことがなく、一人で鬱懐うつかいしていた。鬱懐こそ紀信にもっともふさわしい精神の姿勢ではなかったか。ところが、上使がいま自分を劉邦のもとに連れて行くのである。
ついに内廷に至った。
そこに、陳平が居た。ところがそのかたわらに周苛も居たのである。
「周苛、俺はいつ 烹にられるのかね」
と、紀信はやってしまった。
その時、劉邦が入って来た。後年、儒者が儀礼をこしらえて、劉邦の出入りも荘重になったが、この時期は隣家のおやじでも入って来たような具合であった。それでも紀信は体が震えてしまった。
「紀信、以前、城壁の上で遭あったな」
と、劉邦が言うと、紀信はそっぽを向いた。まともに平伏すれば嬉しさで気が狂ってしまうかも知れない。
(こいつは、骨がらみの逆さからいやで、ついに使い物にならんかも知れんな)
劉邦でさえ、紀信の顔つきや所作しょさを見て思った。陳平はなおさらのことで、この男に秘謀を打ち明けていいか、迷った。周苛の目を見た。周苛の目は、こういう男なのです、信頼できます、とうふうにうなずいた。 |
2020/06/12 |
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