周苛は御史大夫たいふになり、滎陽けいよう城の最高司令官に任ぜられた。
というについては、からくりがある。この城から劉邦が逃げ、次いで将軍たちや文官が逃げ、さらに現兵力のうち五分の四が逃げた後、蕭何が残って残留軍を指揮するのである。残留軍は、滎陽およびその近郷の出身者が多かった。ただし劉邦らが脱出に成功すると同時に、周苛は滎陽の指揮権を握る。要するに置き去りにされる部隊の長で、死は約束済みの役目であった。
周苛には、二人の将軍がつけられた。一人は樅公しょうこうと言い、おだやかで真面目すぎるほどの人物である。今一人は魏王豹ぎおうひょうであった。
魏王豹は、かつての六国りっこくの一つの魏の公子のひとりであった。兄の咎きゅうとともに秦末の乱に乗じて魏の再興をはかり、咎はよく戦って後秦の将軍に降伏し、焼身の自殺を遂げた。豹はまことに策が多く、人間としての実じつが薄く項羽と劉邦を手玉に取って曲芸のようにこの乱世を渡って来た。
はじめに楚に亡命してその保護を受け、楚の後ろ盾だてで魏の地を回復した。のち、劉邦が項羽の留守中に彭城に快進撃してこれを陥した時、豹は劉邦に寝返った。その後、劉邦が大敗して滎陽城に入ると、故郷に帰ると称して黄河の渡し場を占拠して背いた。劉邦は韓信かんしんに兵を与えて捕えさせ、滎陽に連れて来させた。劉邦のおもしろさはこれほど反覆常ない魏王豹を始末せずにそのまま用いたことであった。
(こういう男と共に滎陽は守れない)
と蕭何は思い、樅公と相談し、果断にも斬ってしまった。周苛が死守部隊の長になる資質は十分にあったといっていい。
紀信きしんは、劉邦りゅうほうそのものになった。
替玉かえだまであった。替え玉になるには背が低すぎたが、背丈をごまかすためには車の床ゆかに台を置いて立てばいい。
この替え玉には、兵二千が付けられることになった。ただし、婦人を兵に化けさせるのである。陳平ちんぺいはこの奇術に熱中した。城内の婦人たちはみな嫌がったが、漢軍が所蔵する財貨を一人ずつに与え、当日まで十分に食事をとらせることによって彼女らを釣った。
劉邦である紀信は、無口になっていた。彼は事が終わった後婦人たちが無事逃げられる算段なかりを考えていた。彼は庫くらを開き、婦人たちに与える財宝をさらに増やした。逃げる時に財宝を捨てながら走れ、追跡する兵がそれを拾うことで手間取るだろう、と彼女らに教えた。紀信が庫を勝手に開いたことで、陳平は叱った。
「陳平」
紀信は手をのばして陳平の頭を押さえ、土下座せよ、とい言う。自分は紀信ではない、漢王だぞ、と言うのである。陳平は、狂ったかと思った。
「正気だ」
紀信は言った。漢王としてうやまわれなければどうして漢王としてふるまえるか、と言う。
いよいよ劉邦の脱出の日が決まった。
その日、同時に紀信が劉邦として城を出、項羽に降伏するのである。
「劉邦よ、頼むぞ」
と、当日、本物の劉邦は農夫に変装していたが、内廷の門前で紀信の劉邦と別れる時、そのように言った。紀信は既に劉邦の黄色い天蓋の車に乗っていた。車上から手をのばして、
「陛下よ、豊邑ほうゆうの人間の全てが劉邦嫌いではなかったことをお忘れなく」
と、紀信にすればかつてないほどに感情の激しない声音こわね
「お前は、わしが好きであったのだな」
「でもなさそうだ」
紀信は、いつもの甲高い声に戻った。
人の一生というのは、戸の隙間から、白馬の駈けすぎるのを見るほどに短いという。里りの父老がよく言っていた。こういう趣向で死ねるとは、まことに快とすべきではないですか」
深夜、紀信は女兵二千と共に滎陽けいよう城の東門へ行った。楼上には、友人の周苛しゅうか将軍がいる。周苛は紀信が成功したころを見はからって、楼台から火箭かせんを揚げるのである。それを反対側の西門で待機している劉邦らが見ると同時に脱出する。陳平の奇術はそのよになっていた。
東門が開かれた。
紀信が、車輪をひびかせて突出した。漢王の冠かんむりをつけた紀信が車台の右寄りに立っている。車台の左には、漢王であることのしるしとして犛牛りぎゅうのしっぽを赤く染めた旗のような装飾はなびいていた。
そのあとから、婦人が化けた兵二千が兵器を持たずに続いた。
「予は漢王であるぞ。城中の糧かてが尽きたによって降伏する」
と、紀信は叫んだ。
楚兵は最初戸惑ったが、やがて事態が分かるといっせいに「万歳」を叫び始めた。互いに抱き合って踊る者もあり、楚兵にとってもこの戦いがいかにつらかったかが紀信にも分かった。
攻囲戦は終わった。その喜びは万歳の声と共に楚軍全体に伝播でんぱしてゆき、津波のように轟いた。
各部隊は持場を放棄し、東門へ集まり始めた。そのすきに西門から劉邦は張良ちょうりょう、黥布げいふ、陳平ら十数騎とともに脱出した。
陳平の奇術は成功した。劉邦らが逃げきったと思われる頃に、他の将軍たちも部隊を率いて逃げ、明け方近くには城市は周苛とその残留部隊だけになった。
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2020/06/13 |
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