~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
背 水 の 陣 (三)
劉邦は、いそがしかった。
滎陽けいよう城から逃げだし、その根拠地の関中かんちゅうへ向かった。そのあを、項羽こううは追わなかった。
もし項羽が全力を挙げて劉邦の後を追えば、歴史に漢帝国というものはなかったろう。追う事を献言する者がいなかった。もはや范増はんぞうは去り、竜且りゅうしょ鐘離昧しょうりまいなど不世出ともいうべき猛将たちは前線にあり、しかも意見を差し控えていた。彼らは項羽から疑われていた。この猜疑さいぎ陳平ちんぺいが項羽に掛けた魔術にすぎなかったし、項羽もほどなくそれが敵の策略だと気付くのだが、疑われた側の気分は晴れなかった。彼らが沈黙している以上、項羽の身辺には親類縁者しかおらず、策を立てる能力の者などいなかった。
それでも項羽とその楚軍は、漢軍を殲滅せんめつ出来るほどに強大であった。であるのに、身一つで逃げた劉邦を追えなかったのは、ゲリラが項羽の足を引っ張ったためでった。
鉅野きょや(山東省)の漁師め、また出おったか」
項羽は、劉邦を追おうとしてそれを断念した時、むちをあげて地を打った。鉅野の漁師とは、彭越ほうえつのことであった。かつて鉅野の沼沢で漁師をっしつつ野盗の親分でもあったが、この乱世の中で遅れて挙兵した。やがて漢王劉邦の傘下さんかに入り、諸方で楚軍と小さく戦い、小さく破った。盗賊あがりらしく敵の弱点を見つけることが上手で、敵が強い時は穴にもぐるようにして頭を出すことはなかった。項羽が滎陽城の劉邦を囲んでいる時も、彭越が遊軍を指揮して後方の補給路を脅かし、これに対して項羽はいちいち応酬したため、滎陽城に対して打撃力を集中することが出来なかった。
劉邦が滎陽城を逃げだした時もそうであった。
「彭越など、あぶのようなものではありませんか」
と、項羽の身辺にもそのよに言って黙殺することをすすめる者もいたが、項羽は鹿を逃がしてもひたいを刺す虻を許せなかった。
つい主力をひっさげて旋回し、彭越軍を大いに敗った。彭越ははしり、その軍は四散した。
このおかげで、劉邦は虎口ここうを脱し、関中に向かった。
劉邦は根拠地の関中へ帰ると、再び勢いをもりかえした。
関中は常に彼の再起のための活力源になった。ここで新徴募ちょうぼの兵を得、糧を集め、軍を新編成した。
「滎陽を救うのだ」
と、呼号した。むろん本気であった。この時期、彼が置き捨てた滎陽城はなお健在で、残留の将の周苛しゅうかが、城壁一重ひとえを頼りに楚軍と悪戦苦闘していた。
── かならず滎陽に再来して救援する。
ということを、劉邦は周苛にも言い、諸将にも言っていた。味方に対するこの約束を果たさねば、劉邦は信を失う。味方の忠誠心の上に浮上している劉邦としては信だけで立っている。人々に信じられなくなれば、劉邦のように能も門地もない男はもとの塵芥ちりあくたに戻らざるを得ない。
── 出来そこないの田舎俠客、沼沢の中の泥ぶな・・のような草賊の親分。
というのが、劉邦も自認している彼の前半生であったが、その経験で学んだことといえば子分や兄弟分に対する信しかなかった。信が、めしを食わせてくれる。なんとか人が集まり、人がたすけてくれた。
挙兵の時もそうであった。人望といい、吏才といい、物事を深く考える能力といい、蕭何しょうかのほうがはるかに上で、はい父老ふろうたちも、
── 蕭何さんを立てればどうか。
と、少年たちに説いていた。蕭何はそれを辞し、みずから劉邦を推戴すいたいして衆にもすすめ、自分は下ってその事務役のまわった。人々は劉邦をいかがわしく思ったが、蕭何は動かなかった。劉邦には信がある、と蕭何は思っていたのである。
200/06/14
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