~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
背 水 の 陣 (四)
(・・・しかし、ここで)
周苛たちを救うべく再び滎陽へ行くよいうことは項羽に再び敗け、こんどこそ殺されるということであった。
(とらあぎとの中に戻るということだ)
関中の咸陽かんようでの劉邦は、身の処すすべもないほどに苦しかった。
この時期、惑乱したこともある。
「たれか、いないか」
俺に代りたいという者は ── と、食事の途中、はしを投げ出してわめいたのである。
本気であった。それ以上に切迫した思いで、声は半ば泣いており、表情は運命に向かって哀願しているようであった。項羽にはとても勝てない、自分は巴蜀はしょくの山に中に退いて百姓でもしたい、巴蜀は遠い、沛のほうがいい、もし出来れば沛にわずかな土地でも貰って老後を送りたい、と叫んだ。
劉邦は、天下に望みを持つなどという気持は捨てていた。捨てれば、気が楽になった。
「たれか、いないか」
俺はその男に代る、と叫びつづけた。さしあたっては、滎陽へ行くことが怖かった。しかし行かねば、信を失う。
そのまわりには、食事の給仕人しかいない。彼らはあわててひとびとに連絡した。張良らが入って来た。
「張良、お前、どうだ」
劉邦は救われたように張良のそでをとり、自分が坐っていた場所に坐らせようとした、卓子の上には食い残しの料理が散乱していた。張良はしずかに劉邦を坐らせ、あなたしかいないのだ、ということを諄々じゅんじゅんと説き聞かせた。
劉邦は顔をあげて、茫然としている。
(この陛下ひとは、滎陽へ行くことのみを怖れているのだ。それだけで錯乱したのだ)
と、張良は劉邦の心事を察した。しかしどうすることも出来ない。
この時末座から、
「申し上げてもよろしゅうございますか」
と言った者がある。袁生えんせいという、平素目立たない男であった。
「袁生か」
劉邦はふしぎな顔をした。こんなつまらない男が俺に代りたいというのか。
「直接滎陽へいらっしゃることは、かえって周苛たちを敗死させることになります。一旦南方のえん(南陽)へお出遊ばせ、滎陽城も息をつくことが出来、項羽も奔命ほんめいに疲れる、ということにもなりましょう」
「お前は何を言っているのだ」
劉邦の叫びに対する答えになっていない。
「くわしく申し上げます」
と、袁生は言った。
関中台地を自然の一大城郭とすれば、その正門(東門)函谷関かんこくかんにあたる。ほかに南門(正確には南東方面への門)として、武関ぶかんの開口部があった。袁生の言うのはこの函谷関から出ず、武関から打って出なさい、ということっである。しかる後に南方の宛の城に入り、付近のしよう(葉県)の城をも抑えて新たに南方戦線を形成せよ、ということであった。この間、項羽は北方(黄河こうが沿岸)の滎陽城を攻囲している。その間、滎陽城は息をつける、と言うのである。

「項羽は必ず宛に来るか」
と、劉邦は問うた。
来るに決まっています。と袁生は言う。
「項王のめあては、おそれながら陛下のお首級しるししかないのでございますから」
「わしの首をえさにするのか」
劉邦は、おびえた。平素こういう顔つきをする男ではなかった。
この時張良がことさらに陽気な声を出して、袁生の策をほめ、それしかございませぬ、と言ったために劉邦の気持は落ち着いて来た。
「しかしわしが宛へ行っただけでは、どうにもなるまい。項羽が南下してきてわしの首を取るだけではないか」
「南下した項羽の足を、また北方で引っ張るのです」
と、張良が言う。
彭越ほうえつに働かせるのか」
「彭越ではまだまだ力が足りませぬ」
「では、どうする」
「北方で韓信かんしんに働かせるのです」
200/06/15
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