~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
背 水 の 陣 (七)
韓信は、よく働いた。
うるう九月、北征して代をくつがえし、宰相の夏説かえつ(事実上の代の支配者。代王は趙王の補佐者である陳余ちんよということになっている)を捕えた。韓信はこれを殺さなかった。
「殺すな」
というのは、劉邦の方針でもあった。敵の首領を殺さなければ敵の士卒の恨みも買わず、彼らをすぐさま自軍の兵として繰り入れることが出来る。
韓信の軍は、ふくらんだ。
が、主戦場にあっては劉邦の方がたえず兵員不足で悩んでいた。韓信の成功を聞くと、すぐさま、
「兵を送れ」
と、要求してきた。韓信はそのとおりにしたが、なんだか劉邦の兵員を獲得するために韓信が働いているような観がないでもなかった。
次いで、韓信は趙に入った。
趙における趙王は、飾り物にすぎない。
事実上の趙の主は、陳余であった。陳余についてはかつて触れた。張耳の昔の盟友で、その後、ともに趙の首領格になってからは仲違なかたがいし、張耳の方は劉邦のもとにはしり、たがいに不倶ふぐ戴天たいてんの敵になった。
陳余は、古い志士上がりらしく個人的な関係では小気味のいい魅力もあったが、一面、大局を決する時に思慮がまわりすぎ、果断に富まなかった。
「陳余は聡明な人だが、その知恵の多くは体面をまもることと、私欲を固めることに使われている。あれでは智恵の少ない人とかわらない」
と、批評する趙人もいる。また、
「陳余のがらは、所詮しょせんで子弟を教えている村夫子そんぷうしというところだろう。しかし村夫子になるには欲が深すぎるから子供も集まって来ない」
ろいう者もあるが、酷評かも知れない。
韓信軍の到来にあたって、陳余は用心深かった。まず、
── 韓信とは何者か。
ということから調べた。多くの報告の中に、
── 要するに、淮陰わいいんの小僧にすぎませぬ。
というのがあり、これが陳余に気に入った。陳余は安心したかった。秦時代から奔走し、秦末の乱では諸方に転戦した自分から見れば、たいていは小僧にすぎない。
韓信軍の人数についても、諸説があった。最初、十万と伝える者がいたが、諜報ちょうほうを集めるにつれて、二万というところまでしぼんだ。
(それだ、小僧が大軍を率いて来るはずがない)
と、陳余は安堵あんどした。事実は二万でないにせよ、この数字は韓信軍の実情にやや近かった。劉邦が韓信軍の兵を取り上げすぎていたのである。
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