~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
背 水 の 陣 (八)
ふりかえってみると、韓信軍が旧の地からだいちょうに向かって北進して行った道は、今は鉄道(同蒲鉄道)が走っている。
現在の行政区でいえば山西省になる。ほぼ全体が黄土高原をなし、いくつかの山脈が南北に並行し、山も谷も黄土層をもってあつくおおわれており、樹木も少ない。その中を北から南へ高原をり裂くように汾河ふんがが流れている。汾河の両岸は黒っぽい断崖、灰色の段丘が多く、ときに水流が大きく地をひろげて人々に耕地を作らせて入り、韓信とその軍が通って行った道路というのは、その汾河河谷かこくぞいに延びている。
地名で言えば、曲沃きょくよく平陽へいよう(現在、臨汾)介休かいきゅうをへて楡次ゆじ(太原市の南方)を通り、この楡次のあたりから道がはじめて東する。黄土高原は次第に降りになり、やがて河北平野がひらけ、現在の地名でいえば、石家荘シーチャチヨワン市あたりに出る。
ただ、河北平野へ出る行路は最後の難所と言うべき所で、道の行く手には、北からつづいている太行たいこう山脈の南端がさえぎっている。おのあたりの地形は実に奇怪であたt。
天が包丁をもって山地を縦横にきざんだように細長い谷ができている。それが自然の切通きりとおしや道路になっているのだが、そのほとんどは人馬が二列になって通ることが出来ず、一列でもって長蛇の列をつくらねばならない。このあたりではそういう自然道のことをけいとよんでいる。
その中でも井陘せいけいという自然道が有名で、韓信軍が河北平野に出るにはこの井陘の道を通らねばならない。平野に出る手前に、古来、関門があった。土門関どもんかんともいい。井陘口せいけいこうとも呼ばれた。
「井陘口さえやくすればどういう大敵でも防ぎ得る」
と、古い時代から言われていた。
趙の軍議でも、そういう結論になった。韓信がうように井陘口から野に出て来たところを、趙としては大軍を展開して待ち、捕捉する。
井陘口から出て来たあたりに、泜水ていすいが流れ、それをわたると、町の名としての井陘という城市がある。
小さな町で、町をめぐる城壁はそのあたりの黄土をこね、日で干してざっと積みあげただけの粗末なものであった。
この時代、趙の国都は襄国じょうこく(旧称・信都)にあったが、陳余は思い切った人数をこの予定戦場である井陘城付近に集結した。その人数は二十万と称号し、陳余みずから指揮し、飾り物の趙王も連れて来た。趙王は旧王族のすえで、人のいい老人だった。
200/06/18
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