~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
背 水 の 陣 (九)
ときに、秋十月であった。陳余は井陘城に入って布陣を終えた時、自軍の堂々たる軍容と陣形の美しさに、陶然としたと言われる。主要陣地は井陘城だが、付近にもさまざまの小塁を築いて兵員を入れた。この大規模をさらに補強するように、陣前に泜水が流れ、自然の外堀をなしていた。
「自分は趙国をつくることに多年努力してきたが、それがようやくみのったようだ。わが陣の美しさを見よ」
と、上将の季左車りさしゃにも言った。陳余はいわゆる美男で、接する者に息苦しさを感じさせるほどに目鼻立ちがととにっている。
陳余は若い頃から儒徒であった。常に容儀を整え、君子をよそおった。物事を思想的に考えることが好きで、この陣容の立派さも、陳余の目から見れば一個の美として映ったであろう。
「広武君よ」
と、季左車を尊称で呼んだ。
「これが王者の軍というものだ」
(正気だろうか)
季左車は思った。陳余は若い頃ずいぶんいい加減な事をしてきた。張耳ちょうじとの間に刎頸ふんけいの交わりを結んでいながら、ある戦場でわが身をかばうあまり、張耳を見殺しにしかけたこともある。以上に栄達欲が強く、そのために人を踏みつけにしたことも多かったが、趙の支配者のなってからは心の広やかな徳者をよそおうようになった。季左車はこの陳余に拾われ、ひきたてられてきた男であったが、陳余のこの種の理屈、臭味くさみのある説教にへきえき・・・・していた。
広武君こうぶくんよ、君の作戦案が間違っていたことが、この陣形のすばらしさを見てもわかるだろう」
と、陳余は言った。
実はここに展開する以前、季左車は作戦案を立てて陳余にはねつけられているのである。
「韓信の不利は、井陘の難所を通って来ることです」
と、その時季左車が言った。狭い道を韓信の輜重部隊がやって来る。その輜重しちょう部隊と本軍とを断ち切ってしまえば、ただでさえ孤軍の彼らは戦う前に枯れてしまわざるを得ない。私に兵三万をください、官道づたいに韓信軍に近づき、彼らからまず食糧を奪い、ついで本軍をずたずたにして戦う気力を失わせましょう、と言ったのだが、陳余は、
「何を言うか」
と、たしなめた。彼が先ず言ったのは陳腐ちんぷな基礎理論だった。兵書に、兵数が敵に十倍しておれば相手を包囲し、二倍なら進んで戦う、とある、今我々は敵に十倍している、その上敵は懸軍万里けんぐんばんり、疲労しきっているというのに、これに対し奇計を用いれば、近隣の諸国はわが国を臆病として軽んずるようになるだろう、と言い、
「大軍は正々堂々と戦うべきものなのだ」
と言った。作戦というより思想というべきものであった。
季左車の名は、戦術家として他国にまで聞こえていたが、気象のおとなしい男で、陳余に逆らったことがなかった。ただ、
(この人は韓信のおそろしさを知らない)
と、不安に思った。季左車は今までの韓信の戦いぶりを綿密に調べていて、その尋常でないことを知っていたのである。
「韓信はあなどれません」
と、わずかに言った。
しかし陳余が顔色を変えてしまったために、それ以上は言えなかった。
陳余という男はこういう場合、無用に傲岸ごうがんになるかたむきがあった。彼は何度か戦いを経験して来たが、軍事的才能がなく、そのことが精神の中で赤剥あかむけの薄い皮膚になっており、人に知られるのを怖れた。この場合もそうで、季左車が自分の隠蔽いんぺい部をはぐるのではないかと身構えてしまったのである。季左車としては黙らざるを得なかった。
200/06/18
Next