~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
背 水 の 陣 (十一)
韓信は、その部隊と共におとりになった。この時代でも囮作戦はあったは、大将とその直属部隊が囮になるというのは前代未聞みもんのことであった。
矢が飛び、剣光が韓信の両眼をかすめた。直属部隊はよく戦ったが、やがて微塵みじん に破られてしまい、鼓もしょうも投げ捨て、潰乱した。逃げて、第二陣になだれ込んだ。それ以上逃げようにも、河がはばんでいた。陽が昇って早々の河はなまりを溶かし込んだように黒く音もなく流れていた。
韓信は敵の方へ馬頭をひるがえした。
「死ね」
と、叫んだ。
逃げて溺死するほどなら、戦うほうがまだ生き延びる見込みがあった。生きようと思えば、敵を破ることしかなく、たれもが恐怖の中でそう思った。
「死にたくなければ、戦え」
と、下級指揮官にいたるまで口々に叫び、直率部隊と第二陣とが一つになって敵に向かって突進した。しかし趙軍は多く、味方はすくななく、戦場にくり広げられた戦いのうずはともすれば趙軍のほうが有利であった。
その時、戦場の一角で異変が起こった。韓信が隠していた二千の部隊が山から出現し、疾走して趙軍の空城あきじろや塁に入り、城頭や塁頭に二千本の赤いはたを立てたのである。
趙軍に大恐慌が起こった。
「漢はすでに趙王や陳余を殺して城塁を奪った」
と、たれもが思い、兵は故郷へ帰るべく逃げはじめ、ついに大潰乱した。陳余もこの中にいた。俺はここにいる、と叫びつづけたのだが、彼自身、どこへなりとも逃げたかった。このころになると、空城の占拠軍が打って出、背水軍とともに趙軍を挟撃きょうげきした。
やがて戦いが終わり、趙王、」陳余、それに季左車が捕えられた。韓信は約束どおり全軍に休息を命じ、朝食を出した。
昼すぎ、韓信は趙王を劉邦のもとに送った。陳余についてはその生命を断つ以外になかった。泜水のほとりに引き出し、首をねた。首はかんむりをかぶったまま落ちた。
季左車は縛られたまま韓信の前に引き出された。韓信は自らそのいましめを解き、
「あなたに師事したい」
と言って、自軍をも季左車をも驚かした。言葉どおり季左車を東向きに坐らせ、自分は低く西に向かって坐り、師弟の礼をとった。
(妙な男だ)
と、張耳は思った。
夜、韓信は張耳の幕舎にやって来て、この新占領地の趙のおさめ方について相談した。
再び、妙なことを言った。
「張耳さん、あなたが趙王になるべきです」
張良が驚いたのは、一介いっかいの将軍の韓信が帝王のようなことを言いだした事であり、おそれたのは、韓信と自分という吏僚りりょう同士がそういう勝手なことを話し合ったということが漢王劉邦に痴れれば ── 知れるのが当然だが ── どんな疑いを受けるかということであった。
「当然でしょう」
韓信は言った。趙をおさめる德と因縁を持った者は、天下に張耳あなたしかいないではありませんか。
泰平たいへいの世なら別です」
天子の決める事です、と言った。しかし今は非常の時である上に、劉邦自身が窮しきっている。韓信は先にを得てその兵を劉邦に送ったが、今また新たに趙の兵を送らねばならない。趙の父老ふろうたちを納得させるのは、張耳が趙王になるしかないのです」
(たしかにそのとおりなのだが)
しかし世間というものは別だ、とこの老人は思った。韓信はおごって王まで決めてきたか、と劉邦やその側近は思うに違いない。
「韓信さん、あなたの立場が悪くなりますよ」
張耳が言ったが、韓信にはその言葉の意味すら理解できなかった。彼はとりあえず趙人に対し、今日からは張耳どのが王だ、と宣言した。同時に事後承諾を求めるようにその旨、建白書を劉邦のもとに送った、やがて、
「そのようにせよ」
という劉邦の簡潔な返事が届き、趙王としての印璽いんじも送られて来た。しかし劉邦の感情までは伝わって来ない。
(せいをどうするか)
ということについて、井陘口せいけいこうの戦勝の翌日から韓信は考えていた。この勢いを駆って北方のえんや東方の斉までくつがえしてしまいたい、と思ったが、必ずしも自信がなかった。
師父に相談した。季左車のことである。
季左車はしきりに遠慮したが、韓信がしつこく尋ねたため、婦人のような優しい声で、
「兵の休養が大切です。それに、燕や斉へ遠征するにはよほどの補給が整っていなければ失敗を喫するでしょう」
と、答えた。韓信は少年のような素直さで、その言葉に従った。
(妙な男だ)
張耳は思った。捕虜の一人をしきりにあがめて師父と呼び、その片言隻句へんげんせつくを聞いては素直に有難がっているのである。
(孩子こどもだ)
と、張耳はときに思い、ときに井陘口のあざやかな戦勝を思うと、馬鹿にも出来ない、と思ったりする。
本来、師父などというものを韓信は持つべきでない、と張耳は思っていた。韓信は将軍とはいえ、劉邦のレベルからみれば走狗そうくにすぎず、劉邦の政略や戦略に沿って一部分をまとめていればいい。師父とは、項羽が亜父あほとまで呼んで尊んでいた范増はんぞうこそその好例でろう。劉邦における張良も師父と見られなくみない。師父は政略や戦略を専門に考える存在で、翩々へんぺんたる一将軍にそういうものが必要であろうか。もし必要とすれば韓信に何事か野心がある証拠ではないか。
(韓信とは、あまり親しくはなれない)
と、思った。後日、謀反むほんの疑いでも起こった場合、巻き添えを食いかねない、と思うのである。
その上、張耳にとって滑稽だったことは、
(季左車など師父というたま・・か)
ということであった。兵卒あがりの将軍で、なるほど補給については詳しいが、天下の行末まで見通して大政略を立てる頭脳などありそうになかった。
その男を、
「師父々々」
とあがめて、韓信はついてまわっている。
(よほど、ちぐはぐな男らしい)
巨大な天才が、最も最も子供っぽい心に宿ってしまっているのだ、と張耳は韓信をそのように理解しようとした。
200/06/18
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