~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
斉の七十余城 (一)
夜、劉邦りゅうほうは逃げた。六月の晦日みそかで、昨夜の雨気が、星をおおっていた。
(何度目だろう)
と、思いつつ。
かつて彭城ほうじょう (いまの徐州) の大敗戦で逃げた時は、車だった。あのとき馭者ぎょしゃ夏侯嬰かこうえいが二頭の馬の尻を血で赤くするほどの鞭打ちつづけた。車上に劉邦の息子と娘が同乗していた。劉邦は車を軽くするためにその二人を何度も突き落としたが、そのつど夏侯嬰が拾った。
(その後、何度逃げたろう)
いつの遁走とんそうの時も車輪が気ぜわしくまわっていたはが、今度ばかりは徒歩だった。項羽こうう軍が西方からさかんに運動して成杲せいこう城を包囲し、劉邦を捕えようとしている。やみの中での若木を見ても兵かとおびやかされた。車輪の音さえはばかられたのである。
ついて来るものは、夏侯嬰しかいない。
しょうよ、上よ」
と、夏侯嬰がしばしば狼狽ろうばいした。闇が深く、劉邦が道かと思って足を踏み入れるとそのまま水が顔まで来た。
「そこは小川でございます」
夏侯嬰が猿臂えんびをのばして引っ張り上げねばならなかった。
彼らは、黄河こうがの岸をめざしていた。いま置き捨てて来た成杲城のそばを黄河が東流いており、岸までの距離は遠くなかった。しかし星あかりがないために、しばしば道を見失った。

劉邦は、負けてばかりいる。
とくにここ五十日ばかり敗けることにいそがしかった。先月のはじめ、その最前線の大要塞である滎陽けいよう(成杲せいこう城に隣接する)周苛しゅうから留守部隊を残留させ、自分は少人数で逃げだした。いったんは後方根拠地ともいうべきに戻り、新兵を募って兵力を回復した。この間、
── 項羽に重囲されている滎陽城を必ず救援する。
と言いながら、滎陽へは行かず、はるか南方へくだってえん(河南省、南陽)に入り、
── 漢王劉邦は、宛にいるぞ。
と、四方に宣伝させた。客分の袁生えんせいという凡庸な男の献策によるものであったが、この窮余の一策は劉邦が演じた戦略(といえるならば)の中でも結果として見事に成功したものの一つであった。
多分に反射的な行動癖のある項羽の性格を端的に刺激した。
── あのねずみめが。
項羽はいそぎ滎陽の囲みを解き、地響きを立てるような勢いで南下し、劉邦の宛城をかこんだ。このおかげで、周苛ら滎陽城守備隊は、息をつくことが出来た。
── 項羽め、来よったわい。
と、劉邦は食事中、はしをおいて大笑いしてみせたが、内実こわくもあった。この作戦は劉邦自身が自分の肉をにして項羽という虎を奔命ほんめいに疲れさせるというもので、餌になっている劉邦の怯えは、当人でなければわからない。
劉邦の戦略は ── 張良ちょうりょうら幕僚たちが立案するとはいえ ── 自己を弱者であると規定し、その恐怖感情から発想されるものばかりであった。
── 子房しぼう(張良)よ、このあと、どうすればよいか。
項羽にまともに搏撃はくげきされれば宛城などひとたまりもない・
── 大丈夫でございます。
項羽がふたたび他へ転じて行くための仕掛けを張良はつくってあった。この時期、圏外けんがいにあって遊撃活動をしつづけているゲリラ隊長の彭越ほうえつにすでに言い含めてあり、遠く下邳かひ(江蘇省・邳県)において楚軍の糧道を断ち切るべく行動させつつあった。
── ああ、彭越のやつがそれをやっているのだったな。
劉邦は思い出した。
彭越は盗賊あがりだけに、この種の仕事にかけては名人といえた。が、この時めずらしく組織的な軍隊を率い、下邳で項羽の一族の項声こうせいを将とする楚軍と遭遇し、会戦した。
── 彭越など、はえのようなものだ。
項羽はたかをくくっていた。
ところが劉邦が宛城にいるとき、彭越は項声の楚軍を大いに破ったのである。
項羽は、度を失った。
項羽が天下に誇示するところは勇であった。それだけに負けるということを病的にいやがった。この場合も激怒して宛城の囲みを解き、彭越をみずから撃つべく北に向かってけのぼった。勇というのは結局、戦術規模の行動しかとれないのであろうか。
これに対し、劉邦という弱者の場合、考え出すことは戦術ではなく、戦略しかなかった。劉邦は大きな網であり、項羽はするどいきりであったということがいえる。
── この隙に。
と、劉邦は思った。宛城をけ出し、間道づたいに北へ走った。やがて黄河の南岸(今日の隴海ろうかい線ぞい)の城にもぐりこんでしまった。成杲城と滎陽城は ── 幾度も触れたように ── 隣接し、相連関あいれんかんしあっている。両城とも敖倉ごうそうの山の中の巨大な穴倉くらあなから穀物を得て城市としての生命を維持しているという点で、胎内たいないの双生児といっていい。
この両城については、かつて項羽の軍師の范増はんぞうが、
── 蠅(劉邦)が、食物(敖倉を持つ滎陽城と成杲城)にたかるようなものです。食物を片付けてしまえば蠅は行きどころを失います。両城を徹底的に覆滅ふくめつし、敖倉おをも押さえ込んでしまいなされ。
と、項羽に口を酸っぱくして説いたのだが、れられなかった。戦術的勇者である項羽にすれば食物を片付けるという迂遠うえん── あるいは戦略的な ──やり方よりも劉邦という蠅をたたき殺すという方を好んだ。俺は項羽だ、という苛烈かれつ── 力ハ山ヲ抜キ気ハ世ヲおおフ、という後の彼の詩にもあらわれている ──精神が、項羽の行動を常に方向づけていた。彼は北上し、東進して、彭越軍を木端微塵に砕いた。ただし彭越その人は取り逃がした。
次いで、
── 劉邦が成杲城に入った。
その報を得るや、項羽はいち早く西へ飜転した。西進し、火を噴くように滎陽城を攻め、これをほふった。守将周苛が捕えられ、煮殺されるのは、この時である。
その勢いを駆って、劉邦がもぐり込んでいる成杲城を囲んだ。
── 項王、きたる、項王、来る。
という注進が入るや、劉邦はもうこらえしょうがなくなっていた。成杲城の城内に将士を置き去りにし、城の玉門(北門)から逃げてしまったのである。
── 項羽にかなうはずがない。
と、劉邦はもはや負け癖のついた犬のようなものであった。
ひとつには兵力不足もあった。北方にいる韓信から新占領地の降伏兵を送らせたとはいえ、それだけでは到底勝負にならなかった。
2020/06/19
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