~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
斉の七十余城 (二)
劉邦りゅうほう夏侯嬰かこうえいは、ようやく黄河の岸にたどりついた。
葦の間に舟を見つけた時、
大王だいおうの御運尽きたまわず」
と、夏侯嬰は喜び、劉邦を突き飛ばすようにして乗せてから水に入って舟を押し出し、やがてともから飛び乗って漕ぎ出した。夏侯嬰は、油びかりするほどにすぐれた筋肉質の体をもっていた。
風が強くなった。
この風が雲を走らせはじめたらしく、雲の切れ間に星の光がのぞくようになった。
劉邦は寝ころんで星の数をかぞえていた。生来呑気な性格ではあったが、不意に星が流れたのを見た時、悲しみが胸を襲った。
暗い川波が、そのまま天につながっている。このまま星の世界に昇って行くような気がして、
「嬰よ、なさけないことdな」
と言った。嬰とはいつも戦場離脱の時も一緒だった。このように負けてばかりいて、あげくのはてはどうなるのだろう。
「このまま星のくにへ行けばどんなにいいだろう」
「いいじゃありませんか」
夏侯嬰も劉邦と似たことを思わぬでもない。しかし一方、はいの町の県庁の馭者ぎょしゃだったことを思うと、どうなってももともとだと思っているし、友邦もまたあの町のあぶれ者だったではないか。
「あなた様には、天運がついてまわっているのでございますから」
「五彩の雲のことか」
ばかばかしい、と言った。劉邦のいるところには五彩の雲がかかっているなどと最初たれが宣伝したのか。
「あなた様ご自身がお疑いになっちゃ、いけませんよ」
夏侯嬰は、帆を張りながら言った。うまい具合に風向きが変わった。
「疑いもするわ。天運があればこうも負けまい」
と、劉邦が言った。
「敗けるのは、陛下が」
夏侯嬰は、帆を張り終えた。
「お弱いからです。天運と何の関係もありません」
しかしこう負け込んではどうにもならない。以前は敗走するにしてももう少し配下がいた。
「それにしても韓信はひどいやつですな」
普通、信じられるだろうか。
この地域では黄河は東流している。その南岸は滎陽けいよう成杲せいこうであり、そこでは主君である漢王劉邦が項羽に追い上げられて命のがついに吹っ消えるかわからないほどの凄惨せいさんな激闘を続けているのに、韓信は悠然と北岸にあり、大軍を擁して知らぬ顔でいる、と夏侯嬰は言う。
「いかに黄河とはいえ、河一筋じゃありませんか」
「あいつには、ああいうやつなんだ」
会えば憎めないのである。
「それに、あいつからは、ずいぶん補充の兵を送ってもらっている」
劉邦は総帥そうすいだから配下の悪口は言えないのである。言えばその男の耳に入って、気骨ある者なら敵へ寝返ってしまう。
「送って来るたって、兵など役に立ちませんよ」
韓信が平定して降伏させたばかりの兵だから、漢になじまず、死力をふるって戦うという事をしない。もっともこのことを夏侯嬰が怒るのはおかど違いで、韓信にすれば、劉邦が兵を送れちばかり言うため、せっかく戦いに勝っても兵力の増加にならないのである。せっかく送った兵も劉邦が負けてばかりいるために四散し、焼け石に水どころではなかった。
「むだだ、と韓信は言っているらしいですよ」
「嬰、お前は人の悪口を言わないのがいいところだったのだが」
「この為体ていたらくで」
夏侯嬰はいうていたらくとは、劉邦の敗運が極まってついに二人っきりになってしまったことをさす。
「それに、陛下、私が韓信の悪口を言っても構わねえはずだ」
ついお里の言葉が出た。
「あいつを陛下に取りなしたのはこのあっしだからね」
「おぼえているよ」
韓信がまだ無名のままで劉邦に属したばかりの頃、軍法に触れた者が十四人あり、斬刑ざんけいに処せられてその順が韓信まで来た。夏侯嬰が通りかかって韓信の面魂つらだましいを見て驚き、劉邦に、
主上よ、あなた様は天下の大業をげようとは思われないのですか。あの壮士をうしなってどうなさるのです。
と言ったため劉邦は韓信のいましめを解かせ、治粟ちぞく都尉といにした。
「あれはしょくにいた頃だ」
「あの糞ったれ」
少しばかりの手柄を鼻にかけて増長しやがってと夏侯嬰は言った。嬰は馭者ながら滕公とうこうと尊称されている男だが、言葉ばかりはどうにもならない。
「あいつも忙しいのだ」
劉邦は、ねむそうな声で弁護した。
2020/06/19
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