~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
斉の七十余城 (三)
韓信ほどの奇蹟を現出した天才はかつていたろうか。あっという間にを平定したかと思うとだいを手に入れ、ちょうを亡ぼし、えんをあわせてしまったのである。黄河以北の広大な土地の中で韓信がまだ手をつけていないのはせい(山東省)だけではないか。斉については韓信は趙の降将広武君こうぶくん(季左車)の意見をれ、攻伐こうばつを一時、休止した。広武君の意見というのは、
「将軍(韓信)は南からおこって疾風枯葉を巻くが如き勢いで連戦連勝して広大な版図はんとを得られました。しかし、兵は疲れています。疲労した兵をもって斉の堅城群を討つと無理が生じます」
というものであった。
その後、韓信ははるか黄河北岸に戻り、兵を休め、訓練し、東方の斉への補給路を建設している。
少なくともそのように劉邦は報告を聞いてる。
「陛下よ」
夏侯嬰は言った。
「韓信が黄河北岸に戻って来て、どれほどになるとお思いですか」
「勘定はにが手だ」
「私もにが手です。しかしその程度なら出来ます。そろそろ八ヶ月ではあいませんか」
「八ヶ月」
劉邦はおどろいて起きあがった。
「ここに指が十本あえいまさあ」
夏侯嬰は劉邦の鼻先にこぶしをつきつけ、韓信が井陘せいけいで趙軍を大いに破ったのは去年の十月です、とい言って指を一本立てた。黄河付近に戻って来たのが翌十一月で、その時期から指を折っても八ヶ月に数日欠けるだけです、この間に韓信は寝ていたのです。・・・・
「寝ていた?」
「のも同然です」
その間、劉邦の方はどうか、黥布げいふを口説き、そのために黥布が敗れ、敗軍の黥布が劉邦の滎陽城に投じた。ときに、去年の十二月である。すでに滎陽城は籠城ろうじょうの限界に来ており、兵も民もえていた。
今年の五月、劉邦は陳平ちんぺいの奇計によって滎陽城を脱出し、関中かんちゅうへ逃れ、さらに南してえん城にいたった。この六月、劉邦が成杲せいこう城に戻るとほどなく滎陽城は項羽に陥とされ、さらに成杲城を囲まれ、この脱出行となったのである。
韓信が黄河北岸で寝ていた・・・・あいだに劉邦はこれだけひどい目にっている。
「なんというやつだ」
劉邦が怒声をあげた。
「韓信は八ヶ月も黄河の水をながめていたのか」
水の向こうで劉邦が悪戦苦闘していた。風向きによってははるかに鯨波ときの声が聞こえて来たであろうし、兵火が黒煙をあげて空を染めるのも見たであろう。
劉邦は、薄い被膜で韓信への感情のかたまりを包んでいたのが、のうの袋が破れるようにやぶれてしまったらしかた。
曹司ぼんぼんのような顔をしやがって」
ののりながら、劉邦は感情の根のほうで憎みきるということが出来ない。劉邦の性分かも知れず、罵られている韓信の奇妙な人柄のせいかも知れなかった。
夏侯嬰が修正して、
「あいつは浮浪児のあがりですよ」
と言ったが、劉邦は、
「いや。あいつには気品がある。張良ちょうりょうのほかたれも持っていないものだ」
張子房ちょうしぼう (張良)さんはかんの王族の出でしょう」
「生まれではないよ、生れがよくても下品な奴が無数にいる。韓信は持って生まれた卓然とした気品がある」
「陛下よ」
あなたは怒っているのか、ほめているのか。
「韓信が、漢軍の諸将からどのように言われているかご存知ですか」
夏侯嬰は劉邦の身辺にする馭者だけに、かつてこの種の蔭口かげぐちを劉邦の耳に入れたことがない。近侍する者として最小限守るべき心得を夏侯嬰ほど固く守って来た者はなかった。しかし今は場合が場合だけに、劉邦の耳に入れておかねばならない。
「自立しようとしている、というのです」
(おれが韓信かんしんでも自立するだろう)
劉邦は、一方ではおのれの今の境涯をあざ笑うように思い、一方では鼻の奥の粘膜がになってゆくようななさけなさを感じた。
韓信の版図はすでに広大で、一方、主人の劉邦は黄河以南からたった二人で逃げだしている。劉邦がもし項羽に殺されれば項羽と天下を争うのは韓信であろう。韓信には項羽の勇はないが、その智は古今に比類ない。劉邦など、舞台から消えるのが、当然のなりゆきではないかと当の劉邦さえ思う。
「韓信は陛下の家来なのです。あなた様によって拾われ、あなた様の兵を借りて将となったのです」
(嬰め、わかりきったことをいう)
しかし今は乱世なのだ。
たしかに韓信は劉邦の兵を率いて黄河を北に渡り、ちょうだいを攻め下し、えんを威圧して傘下さんかに入れた。その間、現地の兵を集めて大軍になり、最初の資本もとでだった漢兵はわずかしかいない。
そのうえ、降伏兵を劉邦が催促するつど送って来たから、もし商いならばとっくにもとで・・・は返済したようなものである。
その間、あるじの劉邦は連戦連敗して逃げまわっている。
(自立しようと思わない方がむしろおかしいのではないか)
2020/06/20
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