~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
斉の七十余城 (四)
「韓信は、囲碁を楽しんでいるようなものです」
と、韓信ずきの老儒生酈食其れきいきが劉邦に言ったことがある。知能を傾けて勝負することが目的で、勝負の結果が目的ではない、と酈生れきせい(酈食其)はいうのだが、劉邦は、
(だからこいつは儒者だ)
と、その甘さを内心あざ笑っていた。たとえ韓信がそういう男であっても、勝を重ねてゆくにつれ側近が親玉の無欲を許さなくなるのである。
── 漢王はみずからの非力で敗残しております。見てみぬふりをしたところで、世はあなたを非難しないでしょう。
ていよく見殺しに見すごしなされ、と側近のたれかが韓信に耳打ちしたところで、劉邦はおどろかない。
おやぶんよ」
夏侯嬰かこうえいは、はい時代の言葉に戻った。
「韓信はおそろしいですぞ」
(あたりまえだ)
がからこいつは所詮しょせんは馭者だと劉邦は思った。
たしかに今の韓信はおそろしい。このように舟板の上に寝ころがっていても劉邦は胴がふるえる思いであった。すでに彼我ひがの立場が逆転している。韓信は大軍の主であり、当方は漢王とはいえ率いる者は夏侯嬰だけではないか。
「人間はな」
言ってから、劉邦は言葉をとぎらせた。人が悲しんでいる時に顔をすり寄せて来て、お悲しいことでございましょう、とおっかぶせてくる奴ほど困った手合いはない、と言いたかった。
「こういうときにはな」
劉邦はまた黙った。何を言っていいのか、言葉がない。
風が、帆をゆさぶって鳴った。
「唄だ」
唄はこういう時のためにあるのだ、と劉邦は言った。嬰よ、うたえ。
嬰は風に向かってうたった。
泗水しすいの湖にむ漁夫の唄であった。漁夫は越人えつじんが多く、言葉も風俗もちがっている。漁夫たちは唄がうまかった。嬰がいま歌っているのは、漁民が風伯ふうはく(風の神)に向かって訴える風迎えの唄である。風のない時は風をおこせという。風が帆にさからう時は帆にえと頼む。歌はときにうそぶくようであり、ときに風伯の機嫌をとってはしゃぐようでもあり、さらには風伯を恫喝どうかつして波間をふるわせるようにえるのである。

舟は東へ流されながら、対岸をめざしている。
韓信かんしんは、修武しゅうぶにいる。
今日も修武という地名があるが、この時代の修武はそれよりもわずかに東に所在する現在の獲嘉ホーチャ(河南省)に相当する。
修武はかつての県城まちの一つだが、遠くいんの時代には寧邑ねいゆうと呼ばれていた。まことに青銅器時代から栄えてきためでたい町で、この町に一つの伝承がある。紀元前十一世紀、殷末の悪王とされるちゅうが暴虐の政治をして人心を失った時、それをしゅう王がつことになった。武王は慎重に北伐のための準備をし、兵をこの寧邑で訓練したというのである。『韓非子かんぴし』にそのことが、「兵ヲねいととのフ」と出ている。やがて武王が勝ち、周朝をおこした時、記念して寧を修武に改称したというのだが、はるかな歴史をへだて、韓信もここを根拠地とし、せいを伐つために兵を訓練したと言うのである。もっとも斉を伐つ気配もなく八ヶ月とう長い時間を空費しているのだが。
韓信が修武に根拠地を置いたということがかつて劉邦の幕営に聞こえて来た時、老酈生れきせいなどはひそかに気をみ、
(なんと無神経な男だ)
と、思った。周の武王は『詩経』や「書経』で英明の人といわれているが、要するに自分のしゅである紂王を伐ったわけであり、この点、韓信たる者は無用の疑いを避けるため修武などという因縁つきの町を避けるべきではなかったか。
2020/06/21
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