~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
斉の七十余城 (五)
劉邦たちは対岸についた。
れたわ」
劉邦は見あげて、つぶやいた。風が夜空をぬぐいきったらしく、満天の星が磨き込んだように美しい。もはや歩行に困難はなかった。
修武の城壁は、この時代、どの城壁もそうであるように日干ひぼしの土で出来ている。大雨が降ると崩れるために、壁上には草が植えられていた。
朝、城門が開くとともに、入った。
市中はよく整頓され、道路にちり・・ひとつ落ちていない。いんの法では市中の道路に灰を捨てる者は手を切断されたという。さきのしん朝も厳格で、灰を捨てればいれずみの刑に処せられた。が、この乱世でどの町もきたなくなった。ところが修武の場合、例外で、
(どうも、韓信の法がゆきとどいているらしい)
と、劉邦は思った。それだけに油断はならない。
二人は市中に旅館を求め、劉邦は部屋に入るなり、酒をくらって眠ってしまった。当然、宿の主人は怪しんだ。この時代、どの県城でもそうだが、他所よそから入り込む盗賊を防ぐために不審の宿泊客があればかみに届けることになっている。しかし夏侯嬰かこうえいから多額の金をつかませられたために、様子を見守りつつも密告はひかえていた。
── とう亭長ていちょうだ。
というのが、劉邦のふれこみである。滕は劉邦の故郷のはいの東北にある小さな町で、夏侯嬰の尊称(滕公)にもなっているのだが、亭長という卑職の者にすれば着ているものがおごりすぎているのである。宿の主人は、
(こいつは、盗賊の大親分にちがいない)
と、思った、が、乱世に盗賊はつきもので、それらの大きなものが王侯になりかねない以上、うかつに密告してあとであだをされてもつまらない、と思った。
劉邦は少し酔うと横になって眠り、めると酒食を注文した。
「大公は、ご立派なご人体にんていでござりまするなあ」
この夜、料理を運んで来て亭主は思わず言った。顔が大きく、道具だてがいかつく、黒いひげが見惚みとれるほど美しい。
「顔だけだ」
劉邦は、苦笑した。
(まったく、顔だけだ)
自分でも、内心、おかしかった。
── ひょっとすると、盗賊ではないかも知れない。
亭主が思ったの、ときに薄ぼんやりして、顔ぜんたいがあまくゆるみきったように見えることである。盗賊の顔ならもっとうっからく緊張しているのではあるまいか。
「世が乱れて、百姓ひゃくしょう難渋なんじゅうは非常なものでございます。いつになればおさまるのでございましょうか」
「二人のうちどちらかが死ねばおさまるだろう」
劉邦は、農夫が秋の畑の出来の話でもするようなのびやかさで言った。
「二人と仰せられますと?」
「項羽と劉邦だ」
と言ったため、亭主は席から逃げてしまった。
このあと酒をさらに持ってきて、先刻のお話、私めが聞かなんだことにしてくださいませぬか、と頼んだ。後難をおそれてのことである。
「韓信を見たことがあるか」
「呼び捨てはおそれ多うございます。淮陰わいいん(韓信の故郷の町)様のことなら、お車でお通り遊ばしたのを路傍でおがんだことが何度かございます。ご立派なお方で」
「税は高いか」
「安うございます」
「結構なことだ」
そのほか、韓信の日常についても聞いた。
亭主は劉邦に酒をすすめられて酔ってきた。つい口が軽くなり、韓信の日常は兵士のように質素であるという。
「それが、あれだけのお方にしては、玉にただ一つの瑕瑾きずのようで」
と、言った。王侯将相が、民のついえによって豪奢ごうしゃな暮らしをするというのはこの時代では当然なことで、農民は困るものの、その身辺の者や都市の商人、工人を潤すことにもなる。もし逆に質素ならかえって人に軽侮されたり、きらわれたりする、という傾向があった。
「韓信は、農民を大切にしているからだ」
農民から吸いあげた金で都市を潤すということをしないのだ、という意味のことを劉邦は言った。
── そうでもないでしょう。
という笑いを、酔った亭主はうかべている。
「何を言いたいのだ」
「いいえ、淮陰様は、まだ書生っ気が脱けないのではございますまいか」
「書生っ気?」
「夜、安酒を飲んで書生が街路を歌って歩くように、人の噂では淮陰様は二、三人の者と肩を組んで歌い歩いておられる、ということでございます」
(まさか)
劉邦は、吹き出しそうになった。
「お前、それを見たのか」
「とんでもない」
あくまでもうわさで、根も葉もないおことでございましょう、と亭主は言った。
以上のほかに、亭主は恐ろし気な話もした。
韓信軍の主力はかつてのちょうの兵だが、どの兵も以前とは顔つきまでちがうという。修武しゅうぶの郊外にすなの堆積した野原があるが、そこで行っている部隊訓練は進退ともに迅速じんそくで、軍威はかつてどの軍隊にも見られなかったほどに森厳しんげんであるという。
「淮陰様の軍の前には、かんも屈せざるを得ないでしょう」
亭主が言った時、劉邦はペロリと顔をでおろした。楚はともかく、漢とは劉邦その人の事である。韓信軍も漢軍の傘下さんかなのだが、修武の町の者は第三勢力だと思っているのか。
「韓信がそう言っているのか」
「淮陰様のお声が、やつがれなどの耳にどうして入りましょう」
2020/06/21
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