~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
斉の七十余城 (八)
今ひとつ、秘密工作があった。
老儒者酈生れきせいを使うことであった。
酈生については、劉邦の幕営でも、とかくの評判がある。
張良ちょうりょうなどは、
「あの爺さまは、生き急いでいるのではないか」
と言ったりした。
通称酈生──酈食其れきいき ──高陽こうよう(河南省)の町の門番だったことは既に触れた。乱世に際会せねばまぎれもなく田舎儒者で生涯を終えていたに違いない。当時、しん軍が強勢であった。劉邦は諸方の敗残兵をかき集めては各地に転戦していた。劉邦が高陽の町を通過した時、酈生が、
── いかにもはい(劉邦)は大度量の長者だ。
と見て、その帷幕いばくに投じたのである。
「私の町を通過してゆく将軍が多く、見ていてどの男も大したことはなかった。あなただけが人の意見をれる度量があると思って投じたのです」
と、恩着せがましく言った。
こういう種類の人間は、ひろく「客」と呼ばれている。客は主将に対し、意見、情勢分析、政略、情報という無形のものを与える存在で、主将は客を「先生」として尊重し、彼らが与える無形のものを高く評価する。
酈生が最初に劉邦に与えたのは意見でなく情報であった。
「このさきに陳留ちんりゅう(河南省)がある、そこに秦が多量の穀物を貯えてきたが、将軍はかの城を攻め、穀物をおさえるべきです、その攻略にはこういう工夫があります」
と言った。劉邦はその説によって陳留を攻め、食糧を得た。食糧を得たことで集まって来る兵がふえ、たちまち大軍になった。
── あいつはただの儒者じゃない。
と、劉邦がありがたがったのは、儒者というのは役にもたたぬ屁理屈をこねるものと思っていたからである。劉邦は、恩賞については気前がよかった。酈生をたvひまちひきあげ、広野君こうやくんにした。
が、儒者嫌いと無作法でとおた劉邦は、酈生を必ずしも尊んでいたわけではなく、
「おい、おしゃべり」
といったふうに、呼びかけたりした。
酈生は、しばしば献策した。
「献策が多すぎる」
という評があり、そのとおりでもある。そのうえ三つに二つまでが愚にもつかぬ策であった。。しかも困ったことにその愚案に劉邦が ── 酈生のすぐれた修辞の力のために ── しばしば乗せられ、あとで張良が大苦労して尻ぬぐいせねばならぬことが多かった。
(酈生も、困ったものだ)
と張良ははらの中で思っているが、しかし他の者のように愚案であるとは思っていなかった。つまり酈生は劉邦の力を借りて儒教的理想を実現しようとしている。その下心したごころが露骨に出た案の場合、つねに現実にあわず、宙に浮いたようなものになるだけのことで、それだけのことだ、と老荘家ろうそうかの張良は思っている。
酈生は老来、その下心が露骨になって来たように思われる。生きいそいでいる、と張良がひそかに思っているのはそういう観察から出たものであった。
2020/06/24
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