~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
斉の七十余城 (十)
酈生れきせいは老人のくせに足腰の軽い男であった。
翌々日、車馬と人数を仕立てて修武しゅうぶを出発した。
一行は、護衛兵や人夫を入れて二百人を越えた。随員の中に、田横でんおうと親しかった者や斉の事情通が数人含まれていたことは言うまでもない。
「聖人、賢人の国へ行くのだ」
と、儒者である酈生は喜んでいた。今の山東省は、において孔子こうしを生み、すうにおいて孟子もうしを生んだが、酈生はそれを指しているのである。
そのわりには、
── 住民は権変けんぺん詐謀さぼうにたけている。
と言われる。田氏の王族間の争いを見ていると、政敵に対する憎しみは外敵よりもはなはだしく、血で血を洗う凄惨さは斉の特徴ともいえた。だからこそ酈生にとって一層甲斐がいがあると言っていい。
黄河こうがの流れ ── とくに中流から下流にかけて ── は、時代によって異なっている。以下、現在の地名で言う。潼関トンコワンから鄭州チョンチョウ開封カイフォンの辺りまでは東流する。このあたりで曲がって東北方角に流れるのだが、この時代、現在よりもやや北の方を流れて河口も異なっていた。今の天津付近で渤海ぼっかい湾にそそいでいたのである。
酈生の一行は、韓信かんしんが平定したちょうの地を通り、徳州とくしゅうという町のあたりから河水をわたった。
斉は、黄河を天然の防御線にしている。
対岸は、平原へいげんという大きな城郭を持つ町である。平原城は斉にとって第一線の要塞で、兵士が城の内外に充満していた。
かん王の使者」
という名は、酈生が下交渉のために先発させた外交団によって斉の地によく伝わっている。斉王は
「漢の広野君こうやくん(酈生)の馬車が見えれば、大切な使者であるから、ほこを横たえ、道を開いてお通しせよ」
と、黄河防衛の司令官たちに命じていた。酈生の見るところ、斉は臨戦気分に満ちていた。兵力のすべてを黄河の一線に展開しているらしく、軍谷の密度は濃く、どの士卒の顔も緊張していた。
「これは、何事ですか」
酈生が平原城守備の将軍に聞くと、漢の韓信が攻めて来るというのでこのように固めているのだ、貴殿は漢王の使者というのにそのことをご存じないのか、と切り返してきた。
(とげ・・があある)
酈生は緊張したが、顔だけはのびやかに作って、
「知っている。しかしその情報はなしは古すぎる」
と、言った。
もっとも斉人にとっては古すぎない。韓信が修武で劉邦りゅうほうに叱られ、尻を蹴飛ばされるようにして斉に向かったという諜報が十日後には斉に入っている。以後、斉は全土が至厳の警戒態勢に入り、いつ韓信が来てもこれを殲滅せんめつする準備が出来ていた。
「いや、全権は私にある。私は斉のために平和をもたらしに来たのだ」
酈生は平原城で言い、そのあと斉の護衛兵に守られて首都に向かった。
次いで、第二線の要塞ともいうべきれき(山東省・今の済南市)という巨大な城壁を持つ町を通過した。
ちなみに今日の黄河はこの町の北辺を洗うようにして流れている。この当時、べつな川が流れていた。国名の斉にサンズイを加えた済とう川で、黄河畔の平原城が敗れると、この済水の畔の歴城で防ぐというのが、斉の伝統的防御法であった。
歴城は、高名な泰山山脈の北のふもとにある。この北麓ほくろくはゆたかに水が湧くため、この歴城 ── 済南 ── 一帯は、人々が石器を使っていたころからの居住地であった。
この城にも兵が充満しており、酈生の車騎が駈けすぎるとき、石を投げてくる者がいた。
酈生が振り返ると、子供だった。
(斉人は外国に人間に対し悪がしこいというが、決してそうではない。国を守る念が強すぎるのだ。こういう国を相手に戦争すべきでない)
酈生は思った。
ついに斉の国都臨淄りんし(山東省)にいたった。
2020/06/25
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