~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
斉の七十余城 (十一)
道をいそいで遠望すると、ひどく丘陵の上の城壁が高く長く、中原ちゅうげんの東における最大の都市といわれる評判のとおりの威容が感じられた。
城外で王の使者の出迎えを受け、互いに前後し、互いに旗をなびかせ、勢いよく城門を入った。城内は、なるほど繁華であった。
(臨淄りんしの栄華は、蘇秦そしんのむかしから変わらないと見える)
酈生れきせいよりも百年ばかり前に縦横家じゅうおうかの祖である蘇秦が出、一介の遊子でありながら六国りっこくに遊説して秦に対する軍事同盟を結ばせたが、彼が当時の斉の臨淄をを訪れ、その国都のにぎやかさを述べて、その戸数を、
「七万戸」
といっている。五人家族として三十万戸という都市人口で、しかもその頃すでに遊民が多かった。

臨淄ははなはだ富んで充実している。
その民は笛を吹いたり、しつしたり、ちくを撃ったり、琴を弾じたりして、よく遊ぶ。そのほか闘鶏、闘犬のたぐいに興じてばくち・・・を打つ。
街路は車や人でごったがえし、車は衝突しそうにして往来しているし、人々は肩をすれあわせて往きい、見ているとお互いのたもとで幕ができているようであるし、お互いの汗でもって雨が降るようである。

一大消費都市としての当時の臨淄が目に見えるようであり、酈生の両眼が見ている臨淄は秦帝国の統制を経ているため経済も文化もややおとろえた観がある。それでも戦国の割拠経済の頃の代表的な消費都市であった匂いを失ってはいない。
宮殿の前で、宰相田横でんおうの出迎えを受けた。
(おお、これが音に聞く田横か)
酈生は、自分の使命と、その使命が刺激になってつくりあげた脳裏の大小の景色に酔うような気持になっていた。千里に使いして君命をはずかめず、というが、一個の男子としてこれほど栄誉ある仕事をするというのは、歴史に照らしても稀有けうなことではないか。
その上、その君命の内容たるや、劉邦の思想でなく、酈生の思想で出来上がっているのである。国家と国家の間は利益だけではなく道義で結ぼうというものであり、利を廃し義にくかぎり戦いというものはせずに済む、という儒教的理想が、この任務を仕遂げることによって成就じょうじゅするのである。
その大芝居の相手が、宰相田横であった。田横に対し、酈生が、同志愛以上の思いを込めて抱きつきたいほどの衝動におそわれたのは、それがためであった。
田横は、小肥りの男だった。
顔が大きく、目が小さく、大小のあばたがあるために時々どこを見ているのかわからない。笑うと、大きな口が、裂けるようにひろがった。口中に歯がなかった。田横も酈生に対し、全身で好意を示し、手をとって宮殿の中に案内した。
すぐさま斉王に拝謁はいえつした。
かつて田広でんこうと呼ばれていたこの青年は、白皙はくせき長身の上に眉目びもくが涼やかで、王としての威厳にはやや欠けているところがあったが、そのぶんだけ人懐っこく、
「酈先生」
と呼びかけてくるとき、敬慕が目に宿って、酈生はあやうく涙ぐみそうになった。
(劉邦とは、大変なちがいだ)
かの漢王の儒者ぎらいは有名だが、儒者以外のたれに対しても態度がぞんざいで口ぎたなく、およそ気品というものがない男であったが、それにひきかえ、この斉王はどうであろう。
(これが王というものだ)
酈生は思った。
「先生、まず宿舎で旅塵りょじんをおとされよ」
田横はみずから宿舎に案内した。
建物といい、調度といい、王宮のような感じがした。酈生はそこで旅塵をおとし、衣類を着かえた。
夜は酒宴であった。
斉王は出なかったが、田横以下、斉の実力者が総出で接待をした。酈生が連れてきた随員、事務官、軍人、車駕しゃがの馭者から人夫にいたるまで、階級ごとに斉からそれに相応する階級の吏僚が出て各所で酒宴がもたれた。
2020/06/26
Next