~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
半ば渉る (一)
蒯通かいとうの蒯など、文字としても姓としてもなじみが薄い。が、この当時、
「蒯の町の蒯だ」
といえば、黄河ぞいに住む人なら、あああの河川にのぞんだ土地か、とうなずく。後の洛陽らくよう (河南省)のそばにあった土地の名である。
蒯通はその地名を姓としているが、生れは今日の河北省涿たく─この当時の范陽はんようである。
この大陸は、春秋戦国時に諸子しょし百家ひゃっかがむらがり出て、一大思想時代を経験しちる。戦国が終わり、しん帝国に統一され、さらにその秦も亡んだこの時期においてもなお思想時代は続いており、およそ知識人であっていずれかの学派に属しない者はいない。
知識人のことを、
せい
と尊称する。蒯通も、ふつうは蒯生かいせいと呼ばれている。儒家の酈食其れきいき老人が酈生と呼ばれていたようなものであった。
酈生の場合、その情熱のめあて・・・はspan>劉邦りゅうほうという力をてこ・・にして孔子こうしの理想社会を作り出そうというところにあり、
殺せ」
と、せい王にむかって最後の啖呵を切ったのも、思想的情熱にかれた者の強味とも受け取れる。
蒯生の場合、
儒やどうのような大思想の学徒ではなく、戦国の縦横家じゅうおうかの末徒であり、いわば権謀学派というべきもので、思想上の底は浅い。その技術は権変けんぺん─ 政略的けれん・・・にあり、一国の膨張と自衛のために外交上の権謀術数の限りを尽くそうというもので、思想上の理想社会は持たなかった。
「策士」
と呼ばれるものであった。
策士は、自ら王や帝になれないし、なろうともしない。この学派の人々は王や帝になれそうな素材を探し出し、その者に食い入り、その者のために表裏の工作をし、権変の限りをつくしてその者を広大な領土の支配者に仕立てあげるという政治の魔術師のことである。
── 韓信かんしんほどみごとな素材はない。
と、蒯通は思った。
その天才的な軍事能力によって韓信はちょうをくだし先輩の張耳ちょうじを趙王にし、次いでえんだいをあわせ、さらに斉に入ってその七十余城をくだし、斉の旧都臨淄りんし(山東省)に総司令部を置いた。その版図はんとを現代の省名でいえば古来中原ちゅうげんと呼ばれる河南省と河北省をあわせてさらに山東省を加えたもので、はるか南の、現在の隴海ろうかい鉄道ぞいに死闘をくりかえしているかんの劉邦や項羽こううよりも大きかった。
(当の韓信は自分のだいに気づいていないのだ)
蒯生蒯生はそう思っている。韓信の立場は劉邦の一将軍にあるにすぎず、これについて蒯生が困ったものだとあきれていることは、韓信自身が正直にそう思っている、ということであった。
これについて、蒯生かいせいはある時韓信にえつし、縦横学とは何かということを弁じたことがある。
「国家── 勢力といってもよろしいが ── というものを考えられよ。国家には実態と虚態があります。彼我ひがの実態と虚態をさぐり、それを記号にしたり数式にしたししてそれぞれの力をはかります。その上で相手国の意図を察し、意図に裏打ちされた力を量り、その力の出端でばなって自国の意図や力に吸収させてしまう術もしくは学を縦横の学といおうのです」
「アア」
韓信はあご・・をあげて返事するだけで、興味を示さない。
「将軍よ」
蒯生は韓信を自覚させようとする。
「あなたの勢力の虚とはなにか、漢の一将軍にしかすぎぬということです」
「事実、そうではないか。わしが漢王劉邦の一将軍であることはまぎれもない事実で、あなたの用語でいう実というものだ」
「いや、わつぃの学問ではそれは虚なのです。私にいう実とは、あなたが事実上、ちょうえんだいせいをあわせた大王で、劉邦どのや項羽どのに匹敵するというのです」
「いやなことをいうわい」
韓信は乗って来ず、
「縦横の学とは謀叛むほん学なのか」
と言った。
「他の学派から見れば謀叛でしょう、しかし私の学派からいえば必ず成功する謀叛で、成功してしまった謀叛というのは謀叛にならないのです。亡秦からいえば項羽どのも劉邦どのも謀叛人ですが、それをののしる主体である秦が亡ぼされてしまっている以上、この両将は謀叛人にはならないのです。縦横とはそういうことをあつかう学問です」
「こわい学問だ」
「なぜですか」
「老儒の酈生れきせいは、あなたの縦横の法によって殺されてしまった」
酈生は劉邦の外交官として斉へ行き、斉王に説くに漢との同盟を以てした。斉王は喜び、国境の武備を怠ったところ、おなじく劉邦から斉への武力侵攻を命ぜられていた韓信によって無防備の国境を突破さて、あっという間に斉の七十余城を陥されてしまった。斉王は怒り、酈生を烹殺したが、韓信が酈生を殺したとも言える。韓信は酈生の身を気づかって斉への武力進攻をためらったのだが、蒯生に説かれて決意し、結局は酈生を犠牲にした。
── 酈生は、この世で私に好意的だった数少ない一人だったのだ。
よ韓信はあとあとまで後悔したが、蒯生は意に介せず、
── それが権変けんぺんというものです。その代わり将軍は斉という巨大な国を得られた。
何の不足があるか、と韓信の少年じみた感傷をわらった。
2020/06/29
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