~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
半ば渉る (二)
蒯生は韓信の異能にたれよりも驚いている。しかし一面、
(書生にすぎないのではないか)
そういう韓信の白っぽい皮膚を多欲と権変できたえないかぎり、かえってこうの大きさのために自滅すうrのではないか、と思った。
蒯生が小蛾しょうがを韓信に仕えさせたのも、韓信に対する教育のつもりであったろう。
韓信は斉の旧都臨淄りんしの王宮を総司令官としての宿所に使っている。
「斉王こう栄華えいがのあとでございます」
と、かつての王の寝所に案内された時も何の感動も持たず、
「夜露をふせげばいいのだ」
と言って重い長靴ちょうかのまま絹の夜具のうえにあがり、長剣を引き寄せて眠った。数日、夜も戎装じゅそうを解かなかったのは、武骨をてらってのことではなく、掃蕩そうとう戦にいそがしかったのである。
小蛾は、二十人ばかりの少女を指揮していた。
その服装は、小蛾も彼女の配下の少女たちも一様に白絹を用いた。白はこの当時忌まれる色ではなかったが、それにしても女たちが白一色でいるというのは味気あじきがない。
── 韓信に無用の淫欲いんよくをおこさせないためだ。
と、蒯生は小蛾に説明した。
小蛾は、即公そくこうという斉の二流の豪族の末娘である。即公というのは蒯生が斉に流浪るろうしていたころ厄介になった人物で、でん氏一族がしん末の乱に乗じて斉を牛耳ぎゅうじった時、その風雲に乗じ損ねた。というよりも田氏一族から白眼視されていたためににあってごく地方的な勢力を保っていたにすぎなかった。
韓信が斉王を追って臨淄の主になったとき、蒯生が他の豪族とともにこの即公を紹介し、あらたな斉の秩序形成のために役立たせようとした。
── ついては、あなたの末のお嬢さんを借りたい。
と蒯生が頼んだのは、小蛾の気の利き方が尋常でないのを見込んだためであった。
韓信は、妻を持たない。
しょうもなかった。
人がその理由を聞くたびに、韓信は質問そのものが不思議でならないように、
── 淮陰わいいん城下の貧士に、娘をくれるような物好きがいたと思うか。
と言った。
今は逆に妻妾さいしょうを持ちにくくなっていた。斉の豪族の過半は韓信の将来を買い、その娘を与えて外戚がいせきになりたいと思っている。
(うかつな者が外戚になっては困る)
蒯生かいせいはひとり気を病んでいた。斉での鎮撫ちんぶ工作のうえで、ひとにうらまれているような男が外戚になれば他の諸勢力は韓信から離れるのである。
── 即公がいい。
と、蒯生が思ったのは、即公はかつての田氏一族からうとんぜられていただけで、他の勢力から憎まれているということがないためでもあった。
かといって即公が外戚になれば最上であるということにはんらない。蒯生は思うに、韓信に大望があればより一層大きな勢力を外戚に持つべきであり、それには時期をまたねばならない。
その間、身のまわりの世話をする女を必要とする。
(韓信は変わり者だから、まだその必要を感じていないようだが)
蒯生の感覚では、舎人とねりのような連中に身のまわりの世話をさせていると、韓信の気がやすらがない。その上、もし韓信が妙な女でも拾ったりすると陣中の人事が乱れて来ないともかぎらない。ふつう女の一族が要職につくものであったが、もしその中に小才こさいいた兄や従兄でもいればその者が韓信の帷幕いばくで重視され、蒯生のような才覚で立っている者ほど閨族けいぞくからうとんぜられ、ついには破滅させられてしまうことが多い。
(女が、敵だ)
と、蒯生は思っている。とくに主人の女とその一族は蒯生のような仕事をする者にとって警戒すべき相手であるといってよく、この点、即公の娘ならたとえ韓信のしょうになっても蒯生は即公の一族を制御してゆける自信があった。
もっともその即公の娘でも、蒯生は韓信の手がつくことを願ってはいなかった。手がつくことなく小蛾が韓信から信頼されるようになれば、蒯生にとってこれほど ─ 仕事がしやすいという上で ─ 都合のいいことはない。
2020/06/29
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