掃蕩戦から戻って来た韓信が、食事を了おえ、戎装じゅうそうのまま寝所に入った時、
「なんだ」
思わず声をあげたほどに驚いた。足もとから白い雲が湧わき立つように動き、やがて前後に纏まつわりついて韓信は靴を脱がされ、足を湯の中に浸つけられてしまった。
「なんだ、お前たちは」
言ううひに、絹のようにしなやかな手がいくつも動いて戎服を脱がされ、こんどは体ごとたらい・・・の湯の中に沈められた。
(ああ、蒯生かいせいが言っていた女どもとは、この者たちか)
なぞが解けると、韓信は興味の半なかばを失った。不意のことでもあり体をさわられるのがわずらわしく、とくに沐浴ゆあみのあとの絹の寝衣に着かえさせられた時は、これは私の習慣と違う、と声をあらげて叱しかった。
「私どものつとめでございます」
白衣の女どもの代表が毅然きぜんとしたで口調で言い、手をやすめずに事を運んでゆく。韓信の声が次第に無力になって、
「私は戦いがつづいているかぎり戎衣を脱がないのだ」
というと、白衣のなかのひとりが、
「わたくしどもは陛下の御寝ぎょしのおやすらぎのために仕えております」
「お前は、たれだ」
声の主へ見当をつけて言ったが、なにぶん部屋は薄暗くまわりに白い群が動いているだけで、何者が声を出しているのかよくわからない。
「小蛾しょうがと申しまする。即公そくこうと呼ばれている者が父でございます」
「わいは陛下ではない」
さきに小蛾が陛下と言ったことを咎めたのである。
「まあ」
小蛾の方が驚いた声をあげた。
「王のことを陛下と称となえ奉たてまるのが当然ではございませぬか」
「わしは斉せい王ではない」
「では斉王はどなたでございます」
(たれだろう)
厳密に言えば、東方の高密こうみつ城(山東省)まで逃げて行ったと言われているかつての斉王広こうこそそうであろうが、この乱世ではどの王も自立の要素が濃く、その資格は武力に拠よっている。いったん軍隊を失った王は人々も王とは認めないのである。
「ともかくもわしは王ではないのだ。わしにとっては漢王あるのみだ」
「しかしこの斉におきましては、人々が将軍様を王とみなしてもよろしゅうございましょう」
「蒯生がそう言えといったのか」
その程度のことは韓信にもあたりをつけることが出来る。
「細工の多い男だ」
韓信は蒯生を必要としているが、あの縦横家が、へら・・で泥人形でもつくるように別の韓信像をつくりあげようとしているのはどうもわずらわしい。
「無用のことだ」
韓信はいつの間にか幾本もの手で寝台の上に臥ねかされ、こころよい眠りに引き込まれそうになっていた。 |
2020/06/30 |
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