~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
半ば渉る (四)
翌朝も韓信は戎装じゅうそうし、部隊を率いて城外へ出て行った。
彼はでん一族が逃げ散った後、大きく掃蕩戦を展開している。韓信自身が身を動かしているのは前線視察のためであったが、毎日のように彼自身が手をくだす軽い戦闘もあった。
「首都の繁華は旧のままだ」
と、多くのせい人は喜んでいた。韓信の作戦指導が巧妙なために、臨淄の人々はいつ支配者が代ったのか数日で忘れてしまうほどにそのにぎわいはおとろえていない。
韓信はその配下の諸将をよく統御した。
とくに劉邦りゅうほうの直命によってその傘下さんかに入れられた曹参そうしん灌嬰かんえいという二人の客将が、韓信に対していささかの苦情も持っていないことは驚くべき事象の一つといってよい。曹参は劉邦の旗上げ以来の幕僚であり、灌嬰も韓信よりはるかに古参で、百戦を経た老練の将だが、
「すべて韓信の命令どおりにやっていればまちがいない」
と信じ切っているようであった。
韓信軍は、いくつかの大枝を持っている。その一つの大枝の将である曹参は斉将の田膠東こうとう(山東省・平慶)に追いつめており、いま一つの大枝である灌嬰は、斉の相であった田光でんこう、斉将田吸でんきゅう、それに斉の事実上のぬしであった田横でんおうを追いつめつつあった。
斉王こう高密こうみつ城に逃げ込んでいることは、すでに触れた。
「その広は、おそらく楚に対して援軍を求めるでしょう。楚の項羽はかならずこれに応じます」
蒯生かいせいは、韓信に言った。
(そうだろうか)
韓信にはわからない。
もともと斉の田氏一族は楚を好まず、些細ささいな理由をたててさからってきた。かつて楚の総帥そうすいだった項梁こうりょう(項羽の叔父)に斉は援兵を送らず、このため項梁がしん軍に囲まれ敗死したという事態があった。以来項羽は斉を好まず、二年前の秋も彼は大いに北征軍をおこして斉軍を破ったこともある。要するに斉と楚ほど互いに背をそむけあっている関係もめずらしく、宿敵といってよかった。
(だからこそ老酈生の酈生れきせい入説にゅうぜいも成功したのだ。斉は漢も好まないが、しかし楚・漢のいずれかと握手せねばならなうということになると、斉は楚を捨てて漢よ結ぶ。亡き酈生の雄弁はさることながら、斉はそれほど楚を嫌っていたということだ。いま斉王広は鼠のように田舎の城に逃げ込んでいるが、楚の項羽たる者がそういう敗残の斉王に援軍を送るだろうか)
「儒者なら、こういう事態になれば予測がつかなくなるのです。国や世はかくあるべしという理想を最初にえがき、物事をそれへ当てはめこんでゆこうとしますから」
蒯生は、丸い、あぶらぎった顔に似合わず、つねに湖水のようにしずかな様子で物を言う。
縦横家じゅうおうかならわかるというのか」
「すくなくとも夢想しませんからな」
蒯生がいうのに、二つの国の関係というのは、双方危機にあり、しかも共同の敵を見出した時、過去に何があろうとも一切を水に流し、兄弟けいてい以上の異常な親しさで結ばれるという。国家に理想などはない、あるのはエゴイズムだけだと蒯生は言い、縦横家は儒家とは違い、国家が持つエゴイズムを重視し、分析するのだ、と言うのである。
楚の項羽にとって、斉は在来、第三勢力であった。
それが漢のゆうになり、韓信という小ざかしい(と楚軍では思っている)戦上手がその支配者になれば局面が一変してしまう。今でも劉邦一人をもてあましているのに、北方に巨大な敵が出現したことになり、なにをさしおいてもこの新たな敵をつぶさねば項羽の存立があぶなくなる。幸い敗王の広から救援を求めてきた以上、一挙に大軍を急派し、短時日に韓信をつぶさねばならない。
「項羽が、けるだけの軍勢のすべてをこの方面に持って来るでしょう」
「項王自らが来るか」
「項王の気性としては自ら率いて来たいところだと思います。しかし漢王との死闘ともいうべき対決がつづいており、いま手をぬくと情勢が漢王の方へ有利に傾きましょう。このため、配下の将を派遣すると思いますが、それは必ず竜且りゅうしょでしょう」
項羽の小型ともいうべき猛将が竜且で、名のとおり鐘離昧しょうりまいとともに楚軍の竜虎ともいうべき将である。かつて漢の謀士陳平ちんぺい反間苦肉はんかんくにくの策によって項羽から疑われ、一時意気消沈していたが、項羽自身が敵の策だったことに気づいてびたために、竜且は以前以上の迫力を戦線に展開しはじめている。
(なるほど、竜且か)
もし彼だとすれば、彼の猛攻に耐えられる将は漢には一人もいない。
(わしぐらいのものか)
と思うが、竜且はそうは認めないだろう。韓信はかつて楚軍に一下士官として籍を置いたが、当時、竜且といえば雲の上の人だった。楚軍のころ、脱脂應する直前の職は郎中ろうちゅう(官名)だったから、竜且の顔をしばしば見た。竜且のほうも韓信をおぼえているにちがいなく、おぼえていれば、おそらく、
── あの郎中の職にいて、いつも気がきかずにおろおろしていた男か。
と、馬鹿にしているにちがいない。
「よくわかった」
韓信は、蒯生い謝した。この縦横家をありがたいと思うのは分析の見通しが正確で、あしの情勢を具体的に示してくれることであった。
「戦いのことは、蒯生にはわかりませぬ」
「それは、私がやる」
韓信は静かに言った。
こと、軍事になると、蒯生の知恵は乳を混ぜたようににごってしまう。
「やって見ねばわからない。ともかく竜且という男を考えてみる」
「ところで、御寝ぎょしんのぐあいはいかがでしょうか」
蒯生は急に話題を変えた。
韓信は何のことか言葉の意味が分からず、蒯生の顔をじっと見つめていたが、やがて気づき、
「ばか」
と言った。わけもなく、顔が赤くなった。
2020/06/30
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