~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
半ば渉る (五)
韓信かんしんは、臨淄りんしの宮殿に帰陣するのが楽しみになっていた。
この宮殿の寝室は斉風せいふうの建築で、木と竹と土で出来ている。壁は細竹の網代あじろしん・・にし、それへ枯草をまぜた赤土を塗り、その上にはまぐりの殻を焼いた白い灰を上塗りにつかってい。この上塗りをという。
ゆかは、後世のような土もしくはせん ではない。
地面より高くして床板が張られ、その上に繊細にまれたむしろがびっしり敷かれている。従って室に入るには靴をぬがねばならないが、韓信は女たちがこの寝室を管理するまで常に土足で上下していた。
やわらかい絹のとばりはふんだんにつかわれている。
(ここは山野だ)
韓信は最初、自分にそう言いきかせて、露営でもするような気分でこの部屋を使っていた。
しかし、今は違ってしまった。
小蛾しょうがに指揮された白いきぬの女たちが、韓信を寝台にねかしつけるまで手を動かすことをやめないのである。十基ばかりの燭台が、韓信が寝入るまでの間、一基ずつほのおが消されて行って、最後に一基だけが灯りつづける。
(これでは、wしの身によくない)
一方では、韓信は考えている。
書生であればこそよく物が見えるのだ、というのが韓信の信仰であった。人々から介抱されて自分自身の起居まで自分の意志と力を用いないというのは赤ン坊か衰えた老人ではないか。王侯の暮しというものはそういうものだが、敵味方の兵士が何を考えているかということにつき、たえず透きとおすように見抜いて行く感覚が、介抱されている身にあっては鈍磨してゆくばかりなのである。
(わしがわしでなくなる)
韓信が、そういう韓信でなくなればただの人ではないか。
(蒯生かいせいという男には、そういうことがわからない)
蒯生は今の韓信が気にくわず、書生っぽすぎると思っている。彼は韓信を王侯の暮しを甘受する人間に仕立ててゆきたいらしいが、そういう人間になったころには韓信は韓信でなくなっているだろう
(蒯生の半分はすぐれている、しかしあとの半分は、腐れうりの半分のように切って捨てたいくらいだ)
思いつつも、この暮しになじんでいまえば、えもいえない。
ある夜、疲れて帰って来て習慣どおり戎装じゅうそうのままで食事を済ませた。食事は男どもが給仕する。
そのあと、寝所に入って、沐浴ゆあみをさせられた。
「なんと、男は無力なものだ」
体のあちこちを洗われながら、韓信は、つぶやいた。赤ン坊のようにすべてをゆだねてしまう気になるのである。
「無力におなりになればよいのでございますよ」
女は、ひどく断定的に言う。
(小蛾だろう)
声でわかる。衣装がひとしく白いために、どの女も個別的に韓信の目でとらえておらず、単に女のむれというにすぎない。
受け答えは、この即公そくこうの末娘だけがする。だからこの娘だけは韓信も個別的に認識しているのだが、その容姿となると、手が機敏に動くことと、あごがとがっているらしいことと、身動きがしなやかであるということのはかはよくわからない。
「たれもが白いきぬを着ていてよくわからない。小蛾、そこもとだけでも、その白衣のえり・・袖口そでぐちを黒くふちどればどうか」
「殿さまのおおせどおりにいたします」
(その、殿様はよせ)
と言いたかった。小蛾は機敏に察して、
「殿さまもいけないのでございますか」
賢い女だと韓信は目をみはる思いがした。
「どうお呼びすればよろしゅうございましょう」
小蛾は、しつこい。
(まさか、兄貴とも呼べまい)
韓信が言うと、彼の足もとを洗っている女が、くっと笑いをこらえて背を低めた。小蛾であるようだった。
「小蛾、そこにいたのか」
「どこにいたとおぼしめし遊ばす」
他の女と間違えていたのではないか。といったふうに、小蛾は声を可愛ゆくとがらせるのである。

朝、とばりをとおしてわずかに入って来る陽の光の中で韓信は目を醒ました。
帳をあけて半身を外へ出すと、小蛾がうずくまっていて、含嗽うがいのための小さなたらい・・・を用意していた。
「もう黒いえりえりをつけたのか」
韓信は、小蛾を見つめた。
えりえりと袖口に黒い縁をつけたというだけで、他の白い女たちとはきわだって違って見えた。衣装とか意匠とかいうものがこれほどまでに人間を個別的にするものかと韓信は驚嘆してしまった。韓信は思想の徒ではなかったが、諸子百家しょしひゃっかのなかでいて言えば老荘ろうそうという無差別の中傷的世界にあこがれている。しかし人間は所詮しょせんは個別的存在ではないかと目を洗われるような思いで小蛾の姿を見たのである。
「あざやかなものだ」
「そうでございましょうか」
小蛾は、仲間の白たち・・・のあいだで、ほんのわずかに黒を置いてしまったという自分の個別性にひどく恥ずかしがっている。そのことは、仲間離れをして際立きわだってしまったということへのはずかしさであり、際立った以上はいっそ自分を押し出したいという衝動と、その衝動を懸命にこらえようとしている心の中の背反もまた、彼女の緊張の一因となっているのに違いない。
「人間というのは、大変なものだな」
口をゆすぎえて、韓信はかえりみた。小蛾の白い胸もとが、かがやいて見えた。
「小蛾、今夜はそこもとも沐浴ゆあみをせよ」
この場合の沐浴は、韓信のゆあみ・・・とはまったく内容が異なっていて、今夜のふしど・・・を共にせよ、という意味であった。小蛾は襟元まで真赤になり、白衣の女たちにたらい・・・を片付けさせると、逃げるように去ってしまった。
2020/06/30
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