~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
半ば渉る (八)
十一月になった。
韓信かんしんは全軍に東進を命じた。
濰水いすいの線でとどまれ」
と、曹参そうしんにも灌嬰かんえいにも命じた。
すでに山々の樹々は枝のみになり、大地の見通しはいい。松柏しょうはくのみが点々と霜の中で緑を残している。韓信の麾下きかは諸道を踏み、東へ向かって静かに動いた。
韓信は先鋒せんぽうの出発より一日遅れた。
小蛾しょうがよ」
寝床の中で頼んだ。
「もう一度、沐浴ゆあみしてくれぬか」
見たいのだ、と言う。
さきに小蛾が別室で沐浴したいた時、韓信が不意に入った。女たちがさわいだが、韓信はかまわずに見た。明りが暗かったためによく見えなかったが、沐浴のあと彼女はぬぐわかなったように思える。
「御覧あそなすのでございますか」
身を任せてしまった男とはいえ、裸形らぎょうを人に見せる風習はこの大陸の文化にはない。
韓信は、好色よりも好奇心の方が強かった。
「たのむ」
「人の嫌がることをなさるというなら、殿様も多少は嫌な事でもおえ遊ばせ」
「たとえば?」
「陛下と呼び奉ってもよろしゅうございますか」
「それとこれとはちがう」
「同じことでございます」
きぬによって肌がかくれればこそ陛下もわたくしに何事かをお感じあそばすのでございましょう、はだかを御覧遊ばしてしまえば浅間あさましいのみでもはや何事もお感じにならぬようにおなり遊ばすのをおそれます、と小蛾は言ったが、韓信は、一度だけ、と頼んだ。
「そなたは二度も陛下と呼んだではないか」
結局、小蛾は言われるとおりにした。
黒漆くろうるしを塗られた大きなたらい・・・が持ち込まれ、そのまわりを燭台でかこませた。韓信は女どもをさがらせ、小蛾に衣服を脱がせた。
「陛下」
あちらをお向きあそばして、と言いつつ小蛾は湯の中にうずくまった。
湯は小蛾の腰のくびれまで満ちている。小蛾は両の乳房を両の手でかかえてうつむいた。韓信は黒塗りのひしゃくをもって湯をすくい、小蛾の肩、頸すじなどにかかて行ったが、肌は湯をはじいてとどまらない。
(なんとふしぎば肌だ)
とあきれるうち、身をすくめてうつむいている小蛾が仙女のように見えてきた。
「そなたも、祈ってほしい」
韓信は言った。
「私の心がおなたに奪われることがないように、という事だ。例えばそなたはぬけぬけと陛下と呼ぶ。今はいい。衣装を身に着けたあとなおそなたが陛下と呼ぶようなことがあればわしはきびしくとがめる。そいうわしであることを続けたいのだ」
(奇妙なお人だ)
と小蛾は思ったが、桃色のうなじをのばして一つだけ点頭うなずいた。
「小蛾よ」
韓信が再び呼んだ時は、ともに寝床の中にいた。
「あす戦場へ行く。わしが首になって竜且りゅうしょの前にえられるかどうかは、濰水の水が決めてくれそうな気がする」
2020/07/02
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