~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
虞 姫 (四)
彭越にとってこれほどの不名誉はなく、項羽に対しに持った。この種の男の怨恨えんこんの強さは、病的なものといっていい。
ただ彭越が困ったのは、項羽のもとを離れたために、兵や流民を食わせることが出来なくなったことであった。幸い、斉の田栄でんえいが項羽に背いたので、彼は早速斉に属し、楚の将軍蕭公角でしょうこうかくの軍を大いに破った。
以後、彭越は楚と戦うならたれに下に属してもよかった。彼は三万余人に膨れ上がった兵力を率いて劉邦に属し、戦国の頃にりょう(現在河南省開封かいほうを含めた一円の地方)と呼ばれていた地方を平定し、外黄がいこう(河南省)を奪った。項羽の直轄地というべき地である。
ちょうど、項羽が斉へ遠征して虞姫を得た頃のことで、項羽はその首都彭城ほうじょうおよびその領地を留守にしていた時期であった。彭越の作戦はつねに敵の弱点をくにある。漢王劉邦も項羽の留守中の彭城に乗り込んで来たばかりの時期で、彭越の外黄占領を喜び、
「外黄だけでなく、梁の地全体は、君の斬り取り次第にまかせる」
と、許した。
が、斉の地から軍をかえして南下して来た項羽によって漢軍は微塵みじんに砕かれ、劉邦は逃げた。この時の遁走とんそうで劉邦は何度か車から息子と娘を突き落としたということは、すでに触れた。彭越もあわを食って外黄から逃げ出し、北へ走り、わずかな兵を集めて黄河のほとりに身を潜めた。
そのあたりを、黄河は東流している。
現在はその南岸に沿って隴海ろうかい鉄道が走っている。劉邦や項羽は何度この線を西へゆき東へ往ったことであろう。とくにその線上の滎陽けいよう成杲せいこうを中心に項羽と劉邦が果てしもない死闘の繰り返しに入るのは、前記の段階の後である。
隴海線上での死闘中、彭越はゲリラとして項羽の後方を脅かすのだが、その狙うところは梁の地であった。彼が肥沃ひよくな梁地方に固執したのはこの地方で食糧を得て自前じまえで兵を食わせたかったためであった。自前で食うということは自立への道であり、彭越のように天性不羈ふきの男にとってはこれ以外になく、彼は楚はむろんのこと、漢にも属したくはなかった。
(項羽や劉邦が何であろう。この彭越こそ天下の主になるのだ)
ということは、むろん、この初老の男は口外したことがない。
が、たれにも属したくないという以上、結局そういうはらと見られても仕方がないのだが、ただこの男はゲリラ戦で自前の地を持とうとする以外に天下取りのために必要な手や小細工は少しもやらなかった。
どうやら彭越は、自分の天運についての信仰が強すぎるようであった。
── すでに漢楚が死闘している。いずれは劉邦も項羽もともにたおれ、天下は、この俺か、あるいは斉にいる韓信のどちらかの手に落ちる。
と思っていたし、その証拠に、将来そのようになった時の立脚地として梁の地に執着したのである。それが劉邦にとって結果的に漢を救いつづけるゲリラ活動になった。
もっとも彭越の存在についての評価は、項羽の側では少し違っていた。
── ああいう人間がいるというのは、漢軍の弱点と見ていい。
── 劉邦の配下など、猥雑わいざつなものだ。犬がいるかと思えば虎も狐もいる。寄り合い所帯ではないか。
と、項羽の幕僚は口を開けば言う。項羽もそう思っている。これにひきかえ項羽の楚軍は項羽の武に対して信仰的な安心感を持つ組織で、一将といえども天下に野心を持つ者はおらず、磨き上げられたような統率のもとに動いている。
2020/07/07
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