~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
虞 姫 (五)
彭越ほうえつが三たびりょうの地に出て来たのは、劉邦が黄河北岸に逃げた後の段階である。さらにいえば劉邦りゅうほう韓信かんしん叱咤しったしてせいへ行かせた段階よりあとで、北岸に敗兵や新徴募ちょうぼの兵を集めて相当にふくらんだ時期であった。食糧もあつまり、兵たちの胃袋も充ちた。

一方、項羽は、劉邦から奪った滎陽けいよう成杲せいこうにいて、主力を結集させていた。その後方(東方)はるか三百キロの地点に、楚の首都であり、大兵站へいたん基地でもある彭城ほうじょうが位置している。この三百キロの間を、徴用した老人たちが前線へ食糧を運びつづけていた。項羽の補給線は伸び切っていた。
── 補給難こそ項羽の弱点だ。
と、劉邦は見ている。しかも項羽軍の補給線上の中間に梁という小地域が、置き忘れられたようにころがっているのである。梁はむろん領である。しかし警備の人数も少なく、つねに敵に対して無防備な腹をつき出していた。

── またも彭越が梁に現れております。
という急報を受けたのは、項羽が成杲城にいる時であった。この時期、黄河対岸では同時に劉邦も動いた。むろん彭越と呼応してのことであったが、黄河北岸からふたたび南渡して、滎陽城外に陣をいたのである。最初、項羽は前面の劉邦にとらわれた。
項羽は前面の劉邦を攻めようとしたが、しかし後方の彭越の様子がいつもとはちがっていた。勢いがさかんで、第二報では彭越がたちまち外黄がいこうなどの梁の十七城をとしてしまったというのである。
(まさか)
と、思った。いつもの彭越なら兵を散らばらせて補給部隊を襲ったり、食糧の集積地を急襲してこれを奪うばかりで。城を陥とすなどはあまりなかったのだが、今度は大洪水が寄せて来るような勢いで梁の地そのものをおさえた。報告によると、かんの正規軍が加わっているという。劉邦の従兄いとこ劉賈りゅうかと幼友達の蘆綰ろわんの二人がこの遊撃軍の将軍になり、漢兵二万を率い、彭越を応援していた。彼らは白馬はくばわたし(河南省かつ県)から黄河を南渡し、付近の軍を延津えんしん(河南省)で破ってたちまち梁の地にあふれた、と言うのである。
これによって成杲城にある項羽の主力は、糧道を断たれた。だけでなく、前面の劉邦軍との間に挟まった以上、挟撃きょうげきされるおそれもあった。
(劉邦め。──)
項羽は、ほとほと自分の敵がうとましくなった。今度こそ劉邦の息の根をとめたと思ったのに、冬を越したうじ虫が五月蠅さばえなしてむらがり出て来るように南岸の野に羽音をたてはじめたのである
「彭越から叩きつぶす。わし自ら行く」
項羽は幕僚たちに宣言した。成杲城の留守として曹咎そうきゅうを残すことにした。
「わしが後方へ去っても前面の劉邦には城壁をよじ登って来るほどの力はあるまい」
と、曹咎に言った。
「劉邦がいかに挑発してきても、決して乗るな。城門を固く閉じて城のみ守っておれ。十五日間だ。今から往き、彭越の生首をもぎ取って、十五日後に戻って来る。それまで自重せよ」
と言い、虞姫ぐきも成杲城内の殿舎に残した。
虞姫は先々月の真夏に女になった。侍女が項羽にそのように報告した時、項羽は三十にもなって顔を赤くした。侍女は驚き、顔を伏せ、やがて小さな声で、しぐお召しあそばされますか、と聞いたが、項羽はこの侍女にまで優しく、早春の芽は風に傷みやすいものだ、と言った。つつしむというのである。
項羽は諸事火のように烈しいという男でもなかった。虞姫に対して見せたそのような含羞がんしゅうと行儀のよさは、しばしば諸将に対しても見せた。一種のあどけなさというのに似ていた。
項羽は侍女が去った後、虞姫を呼ばせた。虞姫が来ると、きぬを通してそっと体に触れ、熱いものに触れたように掌を離して、
「秋になって天が高くなれば、わが寝所によ」
と、ささやいた。
他の者に対しては、
「以後、虞姫を美人と呼べ」
ふれ・・を出した。美人とはよき人という意味で男に使われる場合もあり、この時代はまだ性別として不確定な言葉で、この場合は項羽の後宮の一階級ということであったろう。ただし項羽には正室がいなかった。後宮の女も制度を整えるほどの人数はおらず、その意味では美人とは上下の位置づけではなく、ただ一人の寵姫ちょうきということを項羽が制度めかしい呼称で飛ばせたのかも知れなかった。
まずいことに、楚軍の後方を彭越が擾乱じょうらんしたのは、項羽が虞姫にそう言った時期であった。天が高くなろうとしていた。項羽の幕営は昼夜を問わず人が出入りした。項羽は虞姫を忘れたように日を過ごした。
出陣の朝、陽がまだのぼらぬ刻限に項羽は虞姫を呼び、いきなり抱き上げた。十五日待て、帰城したその夜に、と言った後、はげしい息づかいとともに卑猥な言葉を虞姫の耳の中に襲いこませた。
虞姫は楚音にれはじめていたが、項羽が言った言葉はわからなかった。が、意味を体の方がさとって身をひきつらせた。そのふるえが、戎装じゅうそうしている項羽の胸にまで伝わった。項羽はたまりかねて寝所に運ぼうとしたが、かろうじてつつしみ、虞姫の体をおろした。出陣に当たって女に触れると思わぬ不覚を取ると言われ、どれほど好色な武将でも婦人には接しない。
すでに夜が明け、成杲城の城外は、出陣の楚兵で満ちていた。項羽は近衛このえの騎馬隊と彼らが持つその華やかな旌旗せいきとともに城門から突出とっしゅつした。その砂塵が、はるか郊野の東方に消えてゆくまで虞姫は城頭から見送った。
2020/07/08
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