~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
虞 姫 (七)
項羽は梁の地を平定すると、馬首を西へめぐらせて成杲せこう城に戻るべく急行軍した。楚兵の兵士は、項羽の旺盛な行動力によって常に披露していた。
その反転行軍の途中、西方から使者が走って来て、おどろくべき報告を項羽にした。
成杲城は、劉邦の取られてと言う。
曹咎そうきゅうはどうした」
項羽はいそがしく馬を立て直しつつ、鞍の上からどなった。使者は震えながら、
じて、自刎じふんして死にましてござりまする」
と言った。項羽はたたみ込んで、
司馬欣しばきん董翳とうえいは。──」
彼らは、そうきゅうに曹咎につけてやった諸将である。
「両将軍とも敗戦の責めを負って自殺いたしましてござりまする」
使者は言った。
虞姫ぐきは」
と聞こうとしたが、項羽は黙った。
事情を聞くと、劉邦は項羽のいない楚軍というものをなめきっていて、成杲城を囲むと、曹咎を城外に引っ張り出すべくさんざん悪口雑言をあびせた、と言うのである。
「弱虫、腰抜け」
から始まって、あらゆることを言いつのった。
曹咎はかつてしんの役人であった。
彼が櫟陽れきよう(陝西省)の獄の管理主任を務めている時、項羽の叔父の項梁こうりょうがことに坐して投獄された。項梁は曹咎と顔見知りの仲だったから、釈放かたを頼み、曹咎も一肌ぬいで、獄吏の司馬欣に書を送り、項梁を逃がすように頼んだ。項梁も項羽もこれを恩に着た。その後、項羽が関中かんちゅうに入った時、曹咎と司馬欣を招いてそれぞれ将軍にした。
漢軍の中にはそれを知っている者がいる。
「獄で手心を加えることは知っておろうが、いくさは知るまい」
とまで言った。
曹咎はついに出撃してしまった。
漢軍は偽って逃げ、やがて曹咎が城壁上の弩弓どきゅうの射程外まで離れたとき、漢軍はその退路を遮断し、包み込んで殲滅せんめつした。曹咎は項羽の言いつけを守らずに出撃して敗れたことを悔い、汜水しすいのほとりで自殺した。
「成杲城は」
項羽は聞いた。
「漢軍のゆうになりましてござりまする」
「城内の者は?」
と聞いたのは、虞姫の身を安じてのことだったが、使者は市民たちであると思い、殺されはしませなんだ、と言った。
張逸ちょういつは?」
宦官かんがんの名である。水死した豚のようにふくらんでいた。項羽はこの男の安否さえ聞けば、虞姫らのことも見当がつくと思った。
「申し上げることが遅れました。司馬欣将軍は虞美人や張逸らを落としてから自害なされましてござりまする」
「無事だったか」
項羽は、目の表情がやわらいだ。
「はい。張逸はあのような体のくせに足が速くて」
「張逸のことを聞いているのではない」
項羽は、曹咎らの復仇ふっきゅうをするのだ。と全軍に自分の忿いかりを伝え行軍をさらに急にした。
ほどなく虞姫らを護送した一隊がやって来た。もはやるべき城がない以上、婦人たちは彭城ほうじょうまで引き上げた方がよいのではないかと人々が項羽にすすめたが、項羽はきかず、虞姫の車に馬を寄せ、
「前線へ来い。劉邦の首を見せてやる」
と言い捨て、甲冑かっちゅうを輝かせながら通り過ぎた。
2020/07/09
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