~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
虞 姫 (八)
ともかくも、漢軍の士気はあがっていた。汜水しすいの河原で珍しくも楚軍に勝ったという事は、劉邦の気分をも浮き立たせた。
── この勢いに乗ることだ
劉邦は言い、大いに士卒を励ましてさらに滎陽けいように軍を進め、その付近の城市に籠っていた楚将鐘離昧しょうりまいを囲んだ。
鐘離昧は竜且りゅうしょとならんで項羽の配下の二大名将ともいうべき存在で、士卒の中にはその名を聞くだけで怯える者がいる。
「すでに曹咎そうきゅうの首をあげた。鐘離昧がごときがなんであろう」
という言葉を全軍に伝えさせ、それによって士卒の恐楚感情を除こうとした。
が、事態が一変した。項羽が黒煙をあげるようにして成杲せいこう城に近づいているという。
漢軍は恐慌パニックに陥り、
項王来シャンワンライ
「シャンワン・ライ」
「シャンワン・ライ」
という声が地辷じすべりの轟きのように駈け廻って全軍を動揺させ、勝手に軍を離れて逃げ出す群さえあった。
劉邦も、逃げ出したかった。しかしそれ以上に音をたてて崩れようとする全軍をなんとかまとめざるを得なかった。滎陽城か成杲城に逃げ込んで城壁を頼りに項王の猛攻を防ぐということもあったが、そういう籠城では食糧が尽きる時が来る。
(どうすればよいか)
劉邦はを踏みしだいて泣きたかった。
劉邦は食糧に敏感な男だった。このことは才能といえるものではなかった。彼は泗水しすい 郡の沼沢地で野盗を働いている時も、常に餓え、餓えれば戦も何もあったものではないという経験だけは、いやというほど積んでいた。一軍の将軍になった後も常に食糧をあさり歩き、兵を食わせることを第一に置き、余力があれば作戦をやった。
補給の感覚ばかりは劉邦は項羽に優っていた。
「滎陽や成杲の城の城壁が食えるはずがない」
劉邦はこの追いつめられた状況の中で、窮した者のみが持ちうる飛躍をした。防御は城、という観念から跳び越えて、いっそ食糧庫を抱きかかえて防戦しようと思った。
「どうだろう」
張良ちょうりょうに相談した時、張良は最初、この案の突っ拍子のなさに驚いたが、やがて百年に一度の妙案であるように思えて来た。常にどの状況でも応用できるという案ではなかったが、この状況下の彼我ひがの士気。主将の優劣、さらには項羽の楚軍の勢いもうであるとはいえ、後方の外黄がいこう雎陽すいよう兵糧ひょうろう集積所を彭越ほうえつに焼き払われて補給が困難になっている事、などを勘考してゆくと、劉邦の飯櫃めしびつをっかえて飯櫃を守るという防御戦が、あるいはるべき唯一の案かも知れないと思いはじめた。
「陛下にしては、おねずらしく」
よい案を思いつかれましたな、と笑うと、劉邦は真顔で、いれは本来そういう男なのだ、と言った。
本来そういう男とは、本来作戦能力があるということなのか、は食い物に卑しい男だ、という意味なのか、よくわからない。
張良がめずらしくはじけるように笑ったのは、彼は少なくとも後者の意味として受け取ったのだろう。笑われて劉邦はさすがにいい顔はしなかった。
2020/07/10
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