~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
虞 姫 (九)
以下、このあたりの地形について触れる。
北方に黄河こうがの水が西から来て東へ去る。南の方に丘陵が多く、黄河に向かって迫っているが、しかし太古以来、氾濫はんらんをつづけてきた黄河の水のために丘陵の北端は削られ、野はほぼたいらになっている。その平地の黄河(南岸)寄りに成杲せいこう城があり、その東南に滎陽けいよう城がある。成杲城と滎陽城のあいだ ── というよりやや黄河南岸寄りに錯綜した地形で隆起しているのが広武山こうぶざんである。この広武山の西麓の高地に巨大な大穴をいくつも穿うがち、それぞれに屋根をかぶせて穴倉あなぐら群をなしているのがしん帝国の官営穀倉であった敖倉ごうそうである。
「広武山へ入るのだ」
という命令が、潮のように全軍にゆきわたり、部隊それぞれが防御と逃亡に屈強の地形を占拠すべくあらそって登りはじめた。
登りおわると、部隊それぞれが気狂きぐるいしたように杭を打ち、さくを設け、空堀からぼりを穿つなど、防御工事をほどこしはじめた。
陣地は、項羽軍が来るであろうと東方に向かって翼を広げている。陣地が占めている長大な一峰の前面(東方)は大きくたにになって落ちこみ、谷底には水が流れている。この小渓谷を土地の者は広武澗こうぶかんと呼ぶ。
その澗のむこうに、一峰がある。東方からやって来る項羽はおそらくこの峰に陣地を設けるであろう。
やがて、項羽が来た。
「劉邦めは、山にのぼりおったか」
項羽は、意にも介せず、まず成杲城と滎陽城の占拠を確実なものにした。広武山のまわりにあるこの二大城市を軍が抑えた以上、かん軍は山を降りるに降りられず、酔狂にも上へ登りっきりの形になった。野には楚軍が満ちている。古来、こういう作戦をとった軍はなかったのではないか。
「降りねば引きずり降ろすまでだ」
項羽は漢軍の背後(広武山の西麓)を弱点とみて軍の一部をまわし、麓から攻めあげた。が、高地に柵を設けている側は強く、麓から鹿砦ろくさいを排除しながら登らざるを得ない楚兵には不利であった。
項羽はその方面におさの部隊のみを置き、改めて正面にまわり、劉邦が敵の予定陣地として想定した一峰に登り、正攻法をとることにした。前に広武が地の底をえぐったように落ち込んでいる。
その向こうの峰は、よく短時日の間にこれだけの工事を施されたものだと思えるほどの堅城で、木を隙間なく並べた城塁があるかと思えば、無数の城楼が立ち並び、楼上には兵が詰め、澗を越える者があれば鼠一匹でも射殺できる態勢をとっている。
「漢城」
と、後にこの土地ではこの遺跡を呼ぶようになった。それに対し、澗をへだてた項羽の峰は、
「楚城」
と呼ばれた。
項羽は、防御主義者ではなかった。
しかし敵が人工の構造でもって手出しを拒んでいる以上、こちらも築城し、敵の奇襲、急襲を防がねばならなかった。やがて峰をおおって巨大な城塞じょうさいが出来上がった。
この間、項羽こううはしばしば強襲を仕掛けた。漢兵は常に弱く、そのつど大小の構造物に逃げ込んだ。
2020/07/10
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