~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
虞 姫 (十一)
が、劉邦は応じない。
「それでも汝は武人か」
と、項羽は毎日のようにたに越しに罵声ばせいをあびせている。
武の思想が、劉邦と項羽では違うようであった。
対峙たいじして二ヶ月経ち、項羽はいらだった。
劉邦に手出しさせるだけでいい。劉邦が出戦して来ればこれを叩きつぶすのに造作はない。
彭城ほうじょうの町に、かつて捕えられた劉邦の老父太公たいこうと劉邦の妻呂氏りょしを保護してある。
この二人を広武山に連れて来させた。
項羽は、呂氏のそばに寄ってみた。幽閉中、沐浴ゆあみしないせいか、あかの匂いがし皮膚は黄土を塗ったように黄色かった。
「何かご不満がありますか。あれば、おっしゃってください」
項羽は本気でたずねたのだが、呂氏は目をたかのように鋭くし、逆毛さかげを立てるような表情でもって、返事に代えた。項羽は黙って離れた。
その点、老父の太公のほうは哀れであった。項羽が傍に立つと、地にひたいをこすりつけて拝跪はいきし、しきりに搔き口説いて憐れみを乞うた。本来、はい県の豊邑ほうゆう中陽里ちゅうようりの農夫にすぎないこの老父にとってこれほど迷惑なことはなかった。末っ子の劉邦さえ真面目に百姓をして兄の劉伯りゅうはくの手伝いをしておればこういう理不尽な目に劉伯わずにすんだ。
「あなたもかん王の父君である以上は、覚悟のよさを見せてもらわねばなりませぬ」
項羽は、ぎく自然に言葉を鄭重ていちょうにした。
一方で、大きなまないたを作らせた。
翌朝、夜が明けるとともに太公は素裸にされ、俎に縛りつけられて楚城の前面に担ぎ出された。
劉邦は、注進を受けた。
彼の老父が俎に縛りつけられ、楚城の陣前にかかげられているという。そのまわりに楚兵がむらがり、そのうちの二人が大きな包丁を構えてこの犠牲の料理にとりかかろうとしていた。
(父を殺すというのか)
劉邦は、動転した。彼は故郷の中陽里では親不孝者で通っていたし、第一、彼を邪魔者扱いにしつづけ、顔を見れば罵倒していたこの老父を、好きかと言われれば、そうだとは言い難かった。が、殺されるとなると全く事態に質は違ってしまう。劉邦は今にも泣きだしそうになったが、しかしこの感情の発作は必ずしも孝心から素直に出たものとは思えなかった。
儒教は孝をもって倫理の基本としている。倫理だけでなく、社会がよく統治されるための中核の思想ともされていた。
劉邦の時代には志士的な儒徒もしくは職業的儒徒が多くなっている。
しかし一般が儒教で統治されているということはむろんなく、そのことは彼より七世あとの武帝ぶていの出現を待たねばならない。
とはいえ、儒教は、この大陸の原形的な倫理風俗としては孔子こうしの出現以前から存在した。というより民間の習俗を集成し濾過ろかし規範化したのが孔子の儒教といってよく、この点、儒徒ぎらいの劉邦といえども習俗の正義としての孝の思想は持っていた。ひるがえって言えば孝でなかれば人々の反発をくらい、人心を失うのである
劉邦が窮して泣きだしそうになったのは、この点の板挟みによるもので、むしろ泣くほうが、人心の収攬しゅうらん者としての彼にとって必要であった。
劉邦は漢城の前へ前へと歩いた。柵をくぐったり、板橋を渡ったりやぐらに下を通ったりして、ついに崖にのぞんだ台上に立った。足もとには、深くたにがえぐれている。
目の前に、父親が、俎に張り付けられて、ややかしいで立たされていた。
項羽も、楚城の台上にいる。
2020/07/12
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