~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
虞 姫 (十三)
劉邦りゅうほうは峰の上でその様子を見ていたが、なぜエオーファンが逃げ込んだのかわからない。人をやって様子を聞かせると、城の崖の中腹の岩上にいる男は項王であるという。
「どうする」
劉邦は、かたわらの張良ちょうりょうに聞いた。張良は相変わらず水のように静かだったが、劉邦はっさすがに血の気を失っていた。この男の性格が臆病であるとは決していえない。劉邦は戦えば必ず負けて来たが、しかし常に身を陣頭にさらし、かつての多くの王侯のように後方にあって士卒だけを前線で戦わせるというようなことをしたことがなく、このことが、漢兵が劉邦について来た理由の大部分であったといえた。
しかし。劉邦には剣戟けんげきを打ち合う膂力りょりょくもなく、射芸もない。項羽はすでに単身で岩上に出ている。これを避ければ漢軍の士気は一日で崩れるだろう。劉邦は途方に迷った。挙兵当時から見れば劉邦の老いは目立っていた。血の気のひいた頬のあたりは、枯木の皮をり付けたようで、かつてのこの男のとりえだった美々しさからは程遠いものであった。
「降りて、相対あいむかわれるしかないでしょう」
たとえ殺されようとも、天下を得るにはこの場合、その選択しかないのだ、という意味を張良は含めた。項羽はまことに素朴な ── 智者にとっては愚かすぎるような ── 対決を強いている。しかし士卒というものはむしろそういう項羽にこそ魅かれるものだ。楚兵はこれによって項羽をいよいよ武神のように思い、漢兵は逆に項羽への怖れをいよいよ強くする。もし劉邦が避けて後ろへさがれば、漢兵の項羽への恐怖は畏敬に変わり、劉邦をうとましく思うようになるだろう。あなたは死を賭けるべきだ、という意味のことを張良の表情は語っている。劉邦もまた張良と同じことを感じている。
ただ救いは、項羽が弓矢を持っていない事であった。劉邦がその場所まで降りて行ったところで、両者の距離は多少ある。声はとどく。しかし項羽がいかに化物じみた男であろうと、跳び越えるには翼が必要であった。
「項王を圧倒するしかありません」
と、張良が言った。
「わしに出来るか」
「それはもう、十分に。── 項羽の罪をお鳴らしになることです。数えれば十はありましょう」
劉邦の頬に、血の気がよみがえった。
この男の勇怯ゆうきょう遅鈍ちどんばかりはえたいが知れない。
目的が鮮明になった場合に別人のように勇気が出るたちらしかった。
彼は長い体をかがめて峰の上の楼を降り、いくつも柵や関門をくぐった。やがて崖のこみちに出、さきほどローファンが立っていた岩の上に立ち、たにをへだてて項羽と向かい合った時、両軍が文字どおりかたず・・・をのんだ。太古のような静けさが澗と峰を支配しきった時、
「項羽、聴け」
劉邦は、手に持った小枝ではげしくたたいた。
「世にお前ほどに悪虐あくぎゃくの者がいようか」
一は、懐王かいおう の勅命に背き、劉邦が関中かんちゅう王たるべきところをめて蜀漢しょくかんの地に追いやった事、二は楚軍の主席の将であった宋義そうぎを殺してみずからじょう将軍の尊位についたこと、三は懐王の命を待たずにほしいままに関中に入ったこと、四は関中にあってしんの宮殿を焼き、始皇帝しこうていの塚をあばき、その財物を私有したこと、五は懐王の命なくして秦の降王こうおう子嬰しえいを殺したこと、六はいつわって秦の降兵二十万を新安においてあなうめにしたこと、七は自分の好む諸将を各地の王にし、もともとその土地の王であった者を放逐ほうちくしたこと、八は主君である(懐王)彭城ほうじょうより放逐したこと、九はその義帝をひそかに江南こうなん弑殺しいさつしたこと、十はすでに降伏した者まで殺し、政治において公平でないこと、等々を、あるいは低く、あるいは高く、ときに峰々にこだまするほどの声でとなえた。
最初は、劉邦はむかい合う項羽の姿が巨大に見えたが、糾弾きゅうだんしてゆくうちにその姿が小さくなり、ついには声をほがらにあげていることの気持ちよさに酔ってしまい、なにやら踊りたくなるほどの気分が舞いあがってきて、
「漢軍は正義のである。しかしながらお前のような無道の者をつのに常人ではもったいない。まして当方からいどむ必要もない。お前のような者を殺すには、刑余の罪人こそ似つかわしいわい」
と言ってしまった。刑余ノ罪人ヲシテ項羽ヲ撃殺セシメン、という刑余者とは入墨いれずみ(げい)をさす。
漢軍の陣中にはかつて項羽を裏切って今は劉邦の将である英布えいふがいる。英布は入墨者であるため黥布げいふと呼ばれているのだが、このあたりの意味は「黥布にでもやらせるわい」ということであろうか。
この劉邦の大演説は広く語り伝えられ、各地を綿密に取材してまわった司馬遷しばせんによって『史記』に採録された。この一句を黥布が聞いた時、劉邦に対する感情がどう屈折したか、多少の想像が許されていい。
2020/07/17
Next